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日々の破片

著作一覧

2013-07-01

_ トリッキーなJava

本棚を整理していたら、えらく以前にアスキーの鈴木さんにもらった、Javaセキュアコーディングスタンダードを見つけた。

正直、もうJavaはいらないかなぁと思ったが、何気なくぱらぱら見ていたら結構おもしろくて、つい読みふけってしまった。

この本はJava6を前提として(一部Java7についても取り込んでいる。いずれにしても、concurrentはJava6からなので一番おもしろい箇所はちゃんと取り込まれている)、CERTが標準と定めるセキュアなコーディングスタンダードについて説明した本で、書いてあることの1/3は普通にJavaをプログラミングしていれば知っていて当然のことばかりが書いてあるし、そのうちさらに半分は、正直なところどうでも良いことだ。

が、volatileの説明について、ここまでわかりやすく説明しているのは初めて読んだ。「わかりやすい説明」というのは、ここでは簡単な言葉を使ってなんとなく気分的にわかったような気に短時間でさせるという意味ではなく、条件とその条件に合致する例を示し、その例において具体的に何が起きるかを正確に示すような書き方をしているという意味だ。

さらに、先頭に入出力についての絵がかいてあるが、1)正規化/標準化、2)無害化(ここは議論が分かれる点と思う。1)と3)のみで良いのではなかろうか)、3)検証 という入力のステップと、出力の無害化を分けて説明してある。最初に正規化/標準化を置くというのは、データがアプリケーションへ到達するまで多層化している現状においては、すごく重要なことだと思うが、検証については誰でも語るが(もちろん語らなければならないが)、正規化/標準化としてステップを置いてあるのはなるほど、それはその通りだとあらためて思った。

ただし、2)は何かの間違いのような気がする(入出力の絵の説明で入力無害化の参照項目と示した箇所でも説明されているのは正規化だ)。

この本が本当におもしろくなるのは、攻撃からの防御について書いてある(全体がそうだと言えばそうなのだが)項目だ。

例を示す。

public class Secret {
    private int sec1;
    private int sec2;
    public int getSec1() { return sec1; }
    public int getSec2() { return sec2; }
    public Secret() {
        sec1 = 30;
        throw new IllegalStateException(); // 良からぬ状態を検出
    }
}

この秘密のクラスには、getSec1を初めとした非常に便利なメソッド群が用意されていると仮定する。

攻撃者は、このクラスのインスタンスを利用してメソッドを呼び出し、可能な限り秘密の情報なり操作なりを実行したい。しかし、このクラスは安全あるいは信頼がおける実行環境または生成クラスかどうかをコンストラクタでチェックし、異常を検出すると生成を途中でやめて例外をスローする。

どうやって攻撃すれば良いか?

public class SecretBreaker extends Secret {
    protected void finalize() {
        System.out.println("sec1 = " + getSecret1()); // # 30(情報が取れた)
        System.out.println("sec2 = " + getSecret2()); // # 0(この情報は取れなかった)
    }
    public static void main(String args[]) {
        try {
            Secret s = new SecretBreaker();
        } catch (Exception e) {
            // 想定内
        }
        System.gc();
        System.runFinalization(); // 情報の取得
    }
}

なるほど。こんな方法があったのか(本の例はもっと複雑なものとなっている)。

したがって、Secretクラスは設計ミスであり、情報漏えいを防ぐのであればfinal classにするか、それがだめならばfinal void finalize()を定義する必要があるか、またはコンストラクタをprivateとpublicの2段階にする(コンストラクタによる防御はJDK1.6が必須らしいが、これはちょっと理由がわからなかった。1.5でも問題ないように思えるのだが、1.6で実行順序がそれまでと変わって規定されたとかかな)。

この本の「CERT/Oralce」というタイトルはわかりにくく、しかも一通り読んでもどういう意味かわからない(少なくとも説明を見つけられなかった)。そのくせ、帯に相当する表紙の一部に『Androidアプリ開発者必携』とか書いてあって、Oracleという名前とDALVIKがどうからみあうのかまったくわからない。そこはわからないが、Javaのどういうコードにはどういう問題があるかということは、ほぼわかる。ただ、上の2重コンストラクタによるJDK1.6以降限定防御のように、JVMの実装によって動作が変わるか、あるいは定義が異なる可能性があるものについては、DALVIKには通用しないと思う(が、そういうJDK特定しているのは例外的だ)。

Javaセキュアコーディングスタンダード CERT/ Oracle版(Fred Long)

おそらく、CERTという点からは本書の読者は普通のサーバーサイドJ2EE開発者ではないと思う。むしろ、デバイス上の……だからAndroidか。

しかし、読みやすさと簡潔さ、例示の妙もあって、Effective Javaよりも、こちらのほうが得るものは多かった。何より、簡潔で要点を絞った解説が実に読みやすい。セキュアなコードというのは、逆の見方をすれば冗長なコードでもある。本書の書き方からは、3種類の技術を学べる。セキュアなコード、セキュアではないコードを攻撃するためのコード、デバッグやテストのためのコード(2番目と同じ意味だが帽子の色が異なる)だ。相当、お勧めできる。


2013-07-02

_ 夜叉ヶ池

日曜は、新国立劇場で夜叉ヶ池。ずいぶん久々の中ホールだ。少しは空席があったが、ほぼほぼ満員。

香月修という作曲家はおそらく初聴だが、三善晃みたいというか、フランス近代学派っぽい響きのきれいな音楽で、後でプログラムを見たら桐朋の人なのでそういうものなのかなとか思う。

聴いているうちに先日観たフランチェスカダリミニの音も思い出して、後世への影響という点にかけてはワーグナーよりもドビュシーのほうが長持ちしているように感じる。

日本語のオペラはあまり聴かないが、というのは、イントネーションとフレージングが合わないのではないかと疑わざるを得ない点が多いからだが、この作品でも自然なイントネーションでフレーズが取られると、どうしても音が弱くなり、聴き取り難い箇所が多い。そういうところもドビュシーみたいだ。

「性」は「さが」ではなく「せい」なのだな。ただ「尊い」を「とうとい」と歌うのはそうなのかなぁと疑問に感じた(メロディが4音を当てていたから、作曲家が「とうとい」を前提としているのだと思う)。と幾つか引っかかったが(「せい」はそのほうが良いと思うが、訓読みは「さが」と思い込んでいたのでちょっと新鮮だったのだ)全体に美しい言葉が使われている。

舞台は中劇場だからかも知れないが回転させて場面を変える。ちょっとコジファントゥッテみたいな箱庭感があって、おもしろい(おれは箱庭って好きなのだ)。

子守唄は相当耳についていたのだが、今となっては忘れてしまった。おもちゃずくしの2行があって、最後の行の最初が2音節を1音節にする箇所があって、そこでちょっと緊張が高まって、最後が「かざぐるま」できちんと発声できるのは覚えている。

泉鏡花は何度か読もうとして、しかしあまりの擬古文っぷりについぞ読み通した覚えはない。したがって、これが脚色を加えているにしても、完全に1つの物語を通して観た最初だ。

夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)(泉 鏡花)

最初、百合さんの着物姿もあって、江戸時代の物語かと思ったら、背広の政治家とか出てきて、明治から大正が舞台と知る。

山沢が「いかにも坊主だ」と数珠を取り出すところのタイミングが実に良い(坊主だとは知らなかった)。

音楽は、爺さんが死に、萩原が村人の嘲笑をものともせずに百合と鐘を守ることにするシーンでの2重唱が美しい。

(ただ、序曲は良い曲だとは思ったが、どうにもNHKの大河ドラマの主題歌っぽく聴こえてしまうのは困ったものだ)

穴熊が太郎を人形と喝破して破壊するところで、はて、この物語はいったいなんなのか? と不思議になる。頭がおかしい美女の妄想につきあうことにした男の物語なのか。

鐘のことは少しも信じていないのに、雨乞いの牛は信じている政治家と村人(信じているのではなく、そういう娯楽ということかも知れないが、それならそれで実にいやな風習だ)というのも奇妙なことだ。とは言え、山沢が数珠を振り立てると一応びびるということは、それなりの信心はあるということなのだろう。しかし、全裸の美女を牛に縛り付けるから龍神が雨を降らせると言っているのに、山沢が身代わりになってもまったくご利益がないことは村人でなくても想像できる。というわけで、身代わり合戦の箇所はなんじゃこりゃという感じだ。全裸を嫌がるということは、実際には背中に鱗があると考えることもできる。

唐突に百合が白雪が牛に乗せられたところを歌うところは、音楽ではなく物語が、まるでトゥランドットが遥か昔の姫のことを歌うところみたいで、やはり妄念の物語なのかなぁとか考えてみたり。

音の美しさから、好みの作品ではあるので、再演したらまた観てみたいものだ。


2013-07-05

_ 広いは狭く、狭いは広い、博愛

こんな小話がある。商店街の通りのそれぞれの端に豆腐屋がある。お互いに相手を意識しているのは当然だ。ある日、片方の豆腐屋の店主が看板を出した。「通りで一番おいしい豆腐」 ――豆腐の味はそれほど違うものではないので(相当昔の小話なので、どちらの豆腐屋も自家製豆腐を売っているのが前提だ)、なんとなく、そちらに客が寄り付くようになった。当然、もう一方の店主はおもしろくない。そこで対抗して看板を出した。「東京で一番おいしい豆腐」おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。元の店主、当然おもしろくない。そこで看板を出す。「日ノ本で一番おいしい豆腐」――おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。相手も負けじと、「東洋で一番おいしい豆腐」――おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。そこで「世界で一番おいしい豆腐」と出すのは元の店主。おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。ついに、相手の店主は最近知った(明治か大正のころのお話かなぁ)言葉を引っ張り出した。「宇宙で一番おいしい豆腐」――おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。くそー、と元の店主、自分が始めたくだらない看板合戦だけに、敗北感はひとしおだ。が、ふと気づく。とっくのとうに片づけた最初の看板を引っ張り出す。「通りで一番おいしい豆腐」――おおそうか、というわけで客はそちらに流れるようになった。

泉鏡花の夜叉ヶ池の原文(青空文庫Kindleがあった)を読み、そんな小話を思い出した。

夜叉ヶ池(泉 鏡花)

というのは、オペラでいまひとつ納得がいかない点があったので、原作ではどう描写されているのだろうかと、気になったからだ。

この話は、1913年つまり第一次世界大戦の前年、大正2年の作品だが、実に強力きわまりない愛についての物語であった。あと、15年後に書いていたら、ちょっとまずかったろうと感じる内容だ。

ここには、3つの愛について語られる。最初の2つは準主役の坊主、山沢学円が語る。

最初に「夫婦仲睦く、一生埋木となるまでも、鐘楼を守るにおいては、自分も心を傷つけず、何等世間に害がない。」

という、男女の愛について語る。

が、村人たちは承知しない。ついに、神主がこの謎の男を誰何する。

「藪から坊主が何を吐ぬかす。」(こういう、地口(ここでは「藪から棒」の「ぼう」で「坊主」を掛けている。このタイプには「何で有馬の人形筆」とか、「後の祭りの笛太鼓」とかいろいろある)の美しい用例が、明治大正の頃の日本語には多々出てきて、実に楽しいが、それは余談だ)

それに対して山沢が答える台詞が実に秀逸だ。

「いかにも坊主じゃ、本願寺派の坊主で、そして、文学士、京都大学の教授じゃ。山沢学円と云うものです。名告るのも恥入りますが、この国は真宗門徒信仰の淵源地じゃ。諸君のなかには同じ宗門のよしみで、同情を下さる方もあろうかと思うて云います。(教員に)君は学校の先生か、同一教育家じゃ。他人でない、扱うてくれたまえ。(神官に)貴方も教えの道は御親類。(村長に)村長さんの声名にもお縋り申す。……(力士に)な、天下の力士は侠客じゃ、男立と見受けました。……何分願います、雨乞の犠牲はお許しを頼む。」

これが、博愛(友愛というと何か悪いもののようになってしまったので、博愛と訳し直す)の本義だ。

かくして「これがために一同しばらくためらう。」

同じ宗教、あるいは同じ職業、あるいは同じ倫理観、(村長と力士については一見すると異なるが、プライドは自己の尊厳を愛するから保持できるものなので、意味は変わらない)を持つものが共有する意識によって生死に関わる問題に対処することだ。そこには共通の信念があり、最終的にはその信念を未来に繋げる事こそが希望だという感覚がある。この信念をミームと言うのだろう。

ということで、大正初年には、博愛感覚があったことは間違いない。

が、ここに別の愛が出てくる。

代議士(実業家)の穴隈鉱蔵だ。

「いやしくも国のためには、妻子を刺殺さしころして、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽つくすのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。」

つまり、「愛国」というやつだ。

これは不思議なことだ。フランスは「自由、平等、愛国」ではなく「自由、平等、博愛」を理念とする。意味は同じことに見えるが、表現がなぜ異なるのか。

それは、意味が同じではないからだ。博愛のために人は生命を賭すことはできるが、国のためにはそんなことはできない。それで三銃士は国王つまりはフランスのために命を賭けるが、国王のために!とも国のために!とも言わず、一人はみんなのために! と叫ぶ。旅の仲間はそれぞれの国、民族、世界のために旅をするが、そうは言わずに、フロドのために!と誓う。

というわけで、穴隈は「俺なぞは、鉱蔵は、村はもとよりここに居るただこの人民蒼生のためというにも、何時でも生命を棄てるぞ。」といった舌のねも乾かぬうちに、「死ね、民のために汝死ね。見事に死んだら、俺も死んで、それから百合を渡してやる」という晃の申し入れに対して「ひょこひょこと退る」のだった。国のためには死ねないよな。正しい行動だぞ穴隈。その後の晃の台詞にあるように、愛国というのは金銭の問題だからだ。確かに国家の役割は富の再分配に過ぎない。そんな機関はどうでも良い。

なんと大正初年度から、愛国を語る人間は博愛を持たない、つまり信用できないし、命を賭して他人のために戦うこともないということを泉鏡花は表現していたのだった。

ロード・オブ・ザ・リング ― コレクターズ・エディション [DVD](イライジャ・ウッド)


2013-07-06

_ Global再び

リファラを見ると、まちゅさんのGNU GLOBAL入門からの訪問者が結構いる。

GLOBALの出力例を見たいのか、Rubyのソースコードを眺めたいのかわからない。

前者用にアフィリエイトリンクを、後者用にtrunkのソースを付けてみた。

trunkのソースは、cronで、一日一回くらい、svn updateしてgtagsしてhtags回せば良いのだから、そうしてみる(毎朝8時5分JSTとしてみた)。

(追記)本当はGNU GLOBALだから、Globalと書いているおれは、JAVA2年間と同じように愚かな書き方をしていることになるのだ。でも面倒だから直さないけど、GLOBALってアクロニムなのか?(全部大文字はアクロニム用(例:GNU Not Unix→GNU)なので、UnixをUNIXと書いてはいけないというような物言いをどこかで見かけたので、それに対してエパミナンダスのように適用しているのだった)

エパミナンダス 1(東京子ども図書館)


2013-07-07

_ 父親が作った詰将棋を(再)公開

近代将棋図式精選 (1983年)(森田 銀杏)

父から、森田銀杏(正司)さんから寄贈された近代将棋図式精選を借りたので、著作権的にまったく問題がない(おれにとっては)父の作品を公開する。

田島暁雄の詰将棋

ただ、10作収録されているうちの5作を打ち込んだところで疲れたので、残りはそのうち。

(10:12)3篇追加。(11:40)完了。


2013-07-09

_ 不思議の国のアリス

上野で英国ロイヤルの不思議の国のアリス。

幕があくと、庭園での会食が始まるのだろうか、カメラマン(でドジスンと知り)が3人の女性(子供ではない。2人はアジア風の衣装)を映す。手品。両親、不思議なインド人、本式な手品師(シルクハットからウサギ)。

アリスが何かしていると邪魔をする母親。庭師の小僧を追い出す。時間が止まり、くるくる回りながら地底へ落ちていく。

なんか、英国ロイヤルバレエというと、コジョカルとかマルケスとかちびっ子ばかり観ていたせいで、アリスが大人の女性らしくて意表を突かれた(不思議の国のアリスだけに、やはりちびっ子バレリーナが出てくるのかと思った)。手脚の動きが美しい。

という具合に圧倒的な幕開けに目を丸くして観る。これは最高のバレエの演目だな。

インド人は煙を吐き出す芋虫になり、手品師は気狂い帽子屋になり(atok2013はちゃんと変換できるんだな)、庭師の小僧はジャックになってパイを持って逃げる。

母親はハートの女王で大きな入れ物の中にはキングが隠れている。眠りの森の美女みたいな踊り(片脚で立ったまま男性と握手を交わしていく)だなと思ったら、後から子供がバラの園だから眠りの森の美女なんだと教えてくれる。

カーテンコールでは引っ込もうとする女王を帽子屋が引き留めて先に引っ込むというのを2回。女王はすべったり転んだり暴れたり。これまでこういうコミカルな女性役はサンドリヨンの母親にしろラフィーユマルギャルデの母親にしろ、男性が踊るのしか観たことなかったので、どう見ても女性だが実は男性なのか? とどうでも良いところが気になったりした。

英国ロイヤル・バレエ団 「不思議の国のアリス」(全2幕) [DVD](ローレン・カスバートソン)

帰りに渋谷のタワーレコードへ寄ってDVDを購入。


2013-07-15

_ 助産婦さんの現代史

妻が図書館から借りた本がなかなか興味深くて、大体読んだ。

遊廓の産院から ---産婆50年、昭和を生き抜いて (河出文庫)(井上 理津子)

1955年生まれの女性が、1989年に助産院で出産し、その時の助産婦さん(1918年生まれ)をすっかり気に入り、取材を申し込み聞き書きして生まれた本らしい。

この助産婦さんが、以前読んだ、イギリスの女中さんに負けず劣らず、生活が意識的(なのである時点についてのディテールの再現性が高い、少なくとも説得力がある)で、(おそらく著者がそこまで意図したかどうかは別として)ある観点からの現代史となっていて(章立てが助産婦さんの一生となっているので、否応なく歴史となる)、実におもしろい。

ただし、語られる個々のエピソードのまとめ方の問題なのか、それとも著者の意図が主人公の助産婦さんの人間性の豊かさの表現にあるのか、正直まったく興味が持てないエピソードとほーなるほどと蒙を啓かれる思いのエピソードがごちゃごちゃに入っていて、必ずしも通読したくなる本でもなかった(なので、読み飛ばした箇所もたくさんあって、そういう箇所に実はえらくおもしろいものが見つかる可能性もあるとは思う)。

たとえば、産婆が助産婦に変わったのは昭和23年の産婆規則の改定らしいのだが、その前後など実に興味深い。興味深いのだが、エピソードが時代を越えて飛び回るので読みやすくはない。

昭和2年に大日本産婆会(大が付くのが戦前っぽい)が設立されたのが、GHQの看護課によって、看護婦、保健婦、産婆を統合しようとして設立した日本産婆看護婦保健婦協会に統合された。

でもこれはおかしな話だ。まず、産婆を英訳するとmidwifeとなる。midwifeの作業は医者の手伝いだ。したがって、看護婦と同様の資格としなければならない。というのがGHQ側の考えらしいが、ここがおかしい。産婆には技術も知識もある(語り手は元々看護婦だったのがお産婆学校を卒業して産婆になった、という時点で看護婦とはちょっと同列ではないというのは最初から読んでいるとわかる)。なぜ、政府(GHQではなく日本側)の役人は生まれたときは産婆の力を借りているのに、ここぞという時に、産婆の役に立たないのか?

そういえば、取り上げ婆さん(産婆より前の時代の人)を産婆の資格を与えるために実施された試験(時代は昭和初頭だろう)はひどかったと聞く。読み書きのできない人が多いので口頭試問で「お産が長引き、難産になったらどうしますか?」と質問すると、一番多かった回答が「お宮さんのお札を枕元へ置く」だった。

というわけで、結局、産婆会は離脱することになった。

助産婦という名称について、確かに自分は技術者なのだから、お産させる婆さんじゃなくてお産を助ける婦人ですな、と得心した。でもなかなか助産婦さんとは呼んでもらえないものだ。

実際にはもう少しつながり良く書いているのだが、それだけに時間軸に沿った動きよりも、話し手の思いついた流れにしたがっていて、漫然と読むには良いのだが、微妙な読みにくさは感じる。

とは言っても、戦後になったのでベビーブームですさまじく儲かって嬉しくてたまらなくなる。

その一方で、1948年に優性保護法(ここ、あっさり書かれているが、アメリカ本国でも原理主義者が原因で施行できない州があったりするはずが、おそらくGHQが認めさせたのだろうな、というのと同時に、ママードゥユーリメンバーな状態に対するエクスキューズとしてGHQが認めさせたのだろうな、とかいろいろ考えられる)によって中絶が認められるようになったので、なかなか恐ろしい会話が聞こえるようになって来たりするようになる。

そして1953年の国策避妊が始まる。

役所が助産婦を集めて、避妊の講習をする。

最初は役人言葉を使って、国策に沿って避妊教育をしろ、と一方的に告げられる。

なんのこっちゃ、自分のクビを絞めるアホウがどこにおるんや? (大阪の人なので会話になると大阪語で記述されたりする)と、集まった助産婦さんが怒号と野次を飛ばす。

すると役人が、役所言葉ではなく、大阪語で、実にけったいなことやけど、これもお国のためなのや(1950年代初頭の国力では、8000万人しか支えられなかったらしい)そこはかんにんや、とか言い出すと、それもそやなと納得するとか、人口問題、説得に使う言葉の問題、経済問題が翻然一体となっていてなかなか興味深く、さらにその後に続くペッサリーの人体を使った指導とか、1950年代とはそういう時代だったのだな、と興味は続く。意外なことに、この時の避妊講習によって、出産についての技術も知識もある助産婦が、実は妊娠のメカニズムについてはまったく無知だったと知るというのも興味深い。おまけのエピソードとして、自分でもペッサリーを試したが、なるほどなかなかうまい仕組みだわいと思ったが、もう一人子供が欲しいし、面倒なのでその1回しか使わなかったと続く。

まもなく、病院の時代がやって来る。1955年、もはや戦後ではないぞ。

助産婦はこのまま先細りか。

ところが、1978年、ラマーズ法上陸。ひとりひとりのお産の時代が到来だ。助産婦復活。

この流れから見えるのは、とにかく主人公の女性が、典型的な大正-昭和初期の職業婦人そのものだということだ。

まず、開明的。したがって、それが良いとなれば、そちらを取る。ラマーズ法が日本に来たのは60歳のときだが、その年齢になっても新しい技術を学んで取り込むことに貪欲(産婆が助産婦に変わったときに、こちらは技術者なのだから、確かにその名前のほうがふさわしい、と考えたというエピソードも、技術者としての自負にあふれている)だ。

したがって、まとめ方はごちゃごちゃしているが、その時代、その時代に、何があって、それによって何を変えるか、あるいは捨てるか、といった流れが明晰に語られているために、おもしろいのだ。

で、現在になって、ラマーズ法一択から、さらにいろいろな変化があるけど、1990年(72歳)には廃業。

ただ、例のあれだなぁとも考える。

助産婦さんは結局、技術者で、それはつまり、個々の個人の腕前に相当依存する。

それに対して、医療としての出産を支えるのは個々の技術者ではなく、マニュアル化された技術そのもので、比較的安定した結果となるし、緊急時の対応にも強い。

両者が出て来たから、大量向けの安定した(しかし満足度が低くなりがちな)製品と、(前者によって低品質なサービスはふるいにかけられた結果、残れたものは)ごく少量出荷可能な個人技量による高品質な(というよりも満足度を高めやすい)製品を選択できる。

と、1900年代の技術、経済、政策、性差など、いろいろな切り口から読める興味深い本だった。


2013-07-18

_ ビックとヤマダとぴちょんくん

昔々、家電を買うということは、定価で百貨店の家電売り場で(引き出物、新居祝い、出産祝いなどハレの商品として)買うか、町の電気屋さんで買う(そして運んでもらい、取り付けてもらう)ものだった。

光速エスパーが店頭で腕を上げていれば東芝のお店。

黒い服来た頭でっかちの妙な小僧が立っていればナショナル。

赤い服着た青いオウムだか九官鳥だかなら日立。

光速エスパー DVD-BOX Limited Collection(特撮(映像))

やたらほっぺが膨らんだリスがサンヨーだったような。

ソニーは記憶にないなぁ。ビクターの白い犬はナショナル小僧の横に居るのかな。三菱も記憶にない。記憶にないのは、おれが住んでいた町と祖父母が住んでいた町に、それらの家電の店が無いからだ。したがって、家にはソニーや三菱の製品は無い。

という、家電は町の系列店で買う時代というものは昭和を覆っている。たぶん、嘘(ゲートキーパーが撒いたデマじゃないかと思うのは、原宿駅前にビデオの実験ギャラリーがあったころ、そこの主人からここだけの話だけど、と聞かされたからだ。そんな話をベータ系の機器で固めたギャラリーのオウナーに聞かせることができる人間は限られている)だろうが、VHSがベータを駆逐したのはナショナルのお店が楽しいおまけを付けるからで、ソニーはそういうことしなかったからだというような話が成立するのは、どちらかの製品を購入するかは店の選択時点で決定されるからだ。素直に考えれば、ソニーの技術力と企画力では2時間(日曜洋画劇場とか、水曜ロードショーとかいうような2時間枠の番組が当時は毎日あったし、野球がだいたい2時間だというのも重要だろうな)録画ができなかったからだろう。技術ってのはそういうものだ(現代の例:アルミ削り出しという技術力)。にもかかわらずソニーのほうが技術力があるのにと、したり顔で語るのを見て、こりゃだめだなと思ったものだ。というわけで、現在の原宿駅前にはビデオの実験ギャラリーは影も形もない。

さて、そういう時代に、まれに富士通ゼネラルとかNECとかの家電を見かけると、それは安物で売っているのは家電の通常の文脈から外れた(たとえばスーパーの特設会場とか)場所で、こういうのは2流、3流なのだろうな、と考えてしまうのだった。

というようなことを、地下鉄のドア上の良い位置にどーんと貼られているダイキンの広告を見て思い出す。

ダイキン(DAIKIN) 加湿空気清浄機「うるおい光クリエール」 ホワイト TCK70M-W(-)

系列店で家電を購入するのが当然の時代であれば、ダイキンはOEM用の下請けメーカーに甘んじるか、業務用として人知れず評価されるかしか、なかっただろう。(NECや富士通が家庭にPCを携えて殴り込んできたときも、売り場はPCショップ(上新とか)という専門店であって、家電屋は系列のMSXを売っていたのだった)

あるいは、ホシザキの自動皿洗い機や、岩通の電話機とかもそうだ。

JWE-400TUB-H  ホシザキ 食器洗浄機 アンダーカウンタータイプ(-)

というわけで、町の家電屋さんがどんどん消えていき、町を彩る妙な人形はマックとサンダーズと、サトちゃん、コルゲンのコーワカエルのファストフードと薬屋だけになってしまったわけだが(人形並べるタイプの系列薬屋ではサトちゃんだけは元気だが、あとはどんどん消えているように感じる)くらいになってしまったが、でも、これって良いことだったとしか思えないな。

と、家のダイキンのエアコンを眺めながら考える。


2013-07-19

_ Windowsランタイムコンポーネントの連載が終了

Windowsランタイム・コンポーネントによるコードの再利用

Windowsストアアプリに対して、Windows/WindowsRTネイティブバイナリーや、.NET FrameworkクラスライブラリをブリッジするWindowsランタイムコンポーネントについての解説記事の連載が終了しました。

最終回で取り上げたランタイムコンポーネントのソースは、MrbFacadeにあります(記事ではまったく触れてもいないWin32OLEみたいなWinRTというクラスが実は実装してある。でもアセンブリの厳密名を指定しないとインスタンス化できないので使いやすくはない)。

それをWindowsストアアプリ化したものが、WinMIrb

書き始める前までは、完全に誤解していたのが、WinRTというのが.NET Frameworkのサブセット(コンパクトフレームワークの上位バージョン程度の認識)だと思っていたことで、僕だけの誤解かと思って、おそるおそる他のWindowsデベロッパーに聞いてみたら、みんながみんな間違っているという恐ろしさ(3人程度だけど)。

しかし試してみると、C++/CLIやP/Invokeと違って、実に素直なバイナリインターフェイスになっていて、感心した。というか、.NET Frameworkも最初からネイティブ界面はこう作っておいて欲しかった。

というあたりから出発して、mrubyを使ってみたいなとか、ARM(WindowsRT)でCRT使うにはどうすれば良いのか、とか久々にincludeの下を追っかけたりしながら、調べている間はおもしろい記事でした。

しかし、調べ終わって、さて記事にするかという時点ではたと困る。読者層の想定が難しい。Visual C++で、再利用すべきコンポーネントがあって、となると、いやでも、COMプログラマを想定することになるのだが、20~30台のCOMプログラマなんて世の中に存在するとは思えない。

というわけで、久々に当然読者は置いてきぼりになってもやむを得ない状態で書きましたが、やはり日本語は常体に限りますな。書きやすく構成しやすい。

編集は川崎さんに担当して頂けたので、適当なことをつい書いてしまうと、ちゃんとつっこんでいただけるのがありがたかったです。どうもありがとうございました。


2013-07-21

_ おそるべきTeam Geek

角さんとオライリーからTeam Geekを頂いたので、読んだ。完読した。これはひどい。おもしろいし、おそらくとても役に立つから、みんな、読め。

Team Geekを一言で説明すると『Googleに勤務する中堅エンジニアがOSSのプロジェクトやGoogle含む企業で遭遇した経験を元に解説する成功するチーム作り本』なのだが、おそらく、その言葉から推測される内容とは全然異なるものが読める。

ここで読める(学べる)のは、(本書と同様に虚飾を取っ払った率直な書き方をすれば)どうやって自分が組織の中で成功するかについての技術だ。

中核をなす技術は、HRT(謙虚、尊敬、信頼)であり、それに基づいた行動規範が導かれ、その規範にしたがってどうすれば良いかについてケースとそれに対するアンチパターンや成功事例を示す。謙虚、尊敬、信頼! ってまるで根性、友情、勝利みたいに、正義そのものだ。

しかし、書き方がギークそのものなのだ。つまり、虚飾がほとんど無い。

その結果、出て来たものはとんでもなく邪悪なものだ。しかもおそらく書いている本人たちは、すごく真っ白なつもりでいるみたいだし、ある視点において、まったく白い。

あ、まさにグーグルじゃん。

(著者の祖母はモンテッソーリ系の学校を運営しているらしいことがちらっと出てくるが、おそるべしモンテッソーリ)

清濁併せ呑むというような無駄を排除して、ひたすら謙虚、尊敬、信頼の傘の下(謙虚、尊敬、信頼は目的ではなく、成功のためのツールだという点に注意)で成功を追い求める方策を論理的に展開すれば、そこからこんな化け物のような書物が生まれるわけだ。

Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか(Brian W. Fitzpatrick)

僕の正義の感覚から言えば、この本は悪の教典に属する。が、僕の正義の感覚はもう一方で、論語の道徳律は世のためにならないゴミだが法家の組織論は正しいとも認識している(孔子は法律を民衆に示した晏子を非難した。だが、法家は法を明らかにすべしと説く。後者が完全に正しい)。したがって、理屈の上では、この本は文句の付け所がなく、正しく、世の組織はすべてここで書かれたように運営されるべきだ。

というわけで、まず読まなければ話にならない。

モンテッソーリとグーグルについてはこの本が少し参考になる。

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ(スティーブン・レヴィ)

# P.92の図3-10についての縦軸と横軸の矢印のキャプションは逆じゃないかな。マンネリにはモチベーションを示し(横軸)、見て!リスだ!には方向性(横軸)を与えるとすると「軸」がおかしい。まあ、この図はヨタ話の部分なので、間違っていたからといって内容にはまったく影響しないからどうでもいいのだけど。

_ Team Geekのリンク集

Team Geekに出てくるリンク


2013-07-24

_ 相手の伴侶をどう呼ぶか?

妻が相手の配偶者の呼び方が難しいと言う。

ふつう、どう呼ぶと思う? 奥さん同士の会話の場合。

○さんの、

まで言ってはたと困る。

ほら、困るでしょう?

そりゃ、おれの主義(主もなく神もなく)からは禁忌語だから言わんけど、ふつうは「ご主人」だろ?

言えないよねー、ご主人って何よバカ丸出し。

そこを曲げていうのが大人の女なんじゃないか?

だから、大人の人間としてどう言うかが問題なんじゃない。女くそくらえ。

対で考えたらどうかな、○さんの奥様ーあ、対語が無いや。○さんのご妻君なら、ご夫君でいいじゃん。

本気でご妻君とか言ってるの?

いや、絶対に言わない。細君と言ってると取られるだろうし(多分妻は当て字だから正しいけど)細という字のせいで本来の同格のちょっとした敬意みたいなのが失われているように思える。

つまりご夫君もあり得ないでしょ? だいたい、ごふくんと発音しても理解されないと思う。ゴフクンゴフクン

まあ、今となっては書き言葉だなぁ。

妥協点としてご亭主はどうかな?

主がついてるじゃん。

旦那は?

辞書的な意味はともかくやめといたほうがいいだろうな。様をつけると、もっと現代語としては妙だし。

いっそ、お宅の宿六ってどうかな? 日本語よくわかりません。

六はロクデナシの六だから失礼だな。むしろ意味が通じなくて困られるか、意味が通じて憤慨されるかだな。

というわけで、単語として対等な関係を示す言葉が見つからないわけよ。

ふむ。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ arton [なるほど。]

_ くま [はじめまして。 わたしが女性に対して彼女の配偶者を呼ぶとき、それが田中さんなら、田中氏、としてます。氏は男性にだけ使..]

_ arton [なるほど。そういう方法もあるのですね。]


2013-07-27

_ 赤い学校生活と黒い現在

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 という本を、例のKindle30%祭りの時、上位に入っていたのと、題名のヘンテコさと、確か以前byflowで信頼できそうな読書人達が持っていたのを見たのとで、購入して、病気で寝込んでいる間に読んだ。えらくおもしろくて、気付いたら読了していた。

筆者の女性(故人)をこれまで知らずに来たのは残念なくらいに、おもしろかった。

3つの作品が収録されている。

すべてフレームワークは同じだ。

著者はローティンの頃、それは1960年代前半だが、共産党員の父がチェコの国際共産党系通信社に派遣されたために一緒に移住して、その地のソヴィエト学校に通うことになり、その学校で知り合った同級生の女の子(とその家族)との友達付き合いと学校生活が描かれる。

このパートは常に新鮮な発見があっておもしろい。

そして日本へ帰国する。

最初は文通をしているが、彼女自身が日本の学校生活、受験、などなどの日常に溶け込み、向うも向うで何かがあり、そして音信が途絶える。

次に、ソヴィエト連邦が瓦解して東欧が混乱している時代に、再訪し、再会し、現況が語られる。

同じフレームが3回語られることで、歴史上の異なるディティールが明らかになり(たとえば、プラハの春に対するワルシャ条約同盟による圧殺であったり、核兵拡散禁止条約をめぐる中ソ対立と日共のスタンスによるプラハでの彼女の回りの状況変化だったり、友人の本国--彼女と同様に、各作品で選ばれた一人の女の子の父親は他国から派遣されている--の状況変化、つまりルーマニアにおけるチャウシェスク政権の誕生)、同じソ連瓦解後の各国の情勢だ。

最初の作品の主人公(は常に作者なので対象となる女の子を以下、主人公と呼ぶ)は、ギリシャ軍政から亡命して来たギリシャ人。主人公はあまり勉強はできない。そのため、学校の先生たちはすぐに過去の人物を持ち出して嘆く。数学の先生であれば「あー、ユークリッドが……」、物理の先生であれば「あー、アルキメデスの……」、文学の先生であれば「ソフォクレスの……」という具合だ(今、思い出しながら書いているので引用はすべて不正確だ。固有名詞も保証できない。ソフォクレスではなくエウリピデスの可能性もある)。

再会すると、彼女は西(ではなく統一だが)ドイツはオペルの企業城下町で医者になっている。繁盛している。ドイツは移民の国だ。トルコ人、ギリシャ人、みんな、同じく浅黒くオリーブの眼をした主人公を頼っている。

しかし、家族はばらばらになっている。いろいろあったのだ。特に、父親が、プラハの春に対するソ連の侵攻に抗議の声を挙げたのは致命的だった。通信社をクビになった。しかし、チェコの人たちはだからこそ彼女たちを大切にしてくれる。しかしソ連原理主義者も当然、存在する……。

2番目の作品の主人公はルーマニア人。印象的なのは彼女の兄だ。ソ連学校の優秀極まりない先生たち(ほとんどが女性だということは最初の作品で説明されている)の中でとりわけ人民英雄的な扱いを受けている物理の先生の授業が確かに英雄的に素晴らしい。彼女が説明し実験させると、生徒はすべて、物理のとりこになる。その中でも特に彼女の魅力に取りつかれてしまったのが兄貴だ。というわけで、チャウシェスクが反ソ連に舵をきったため、一家はルーマニアへ戻ることになるのだが、兄貴だけはチェコへ残り、物理の勉強を続ける(この先生の授業を受けられなくなるなんてそんなもったいないことできるはずがないじゃないか!)。

ここで描かれるソ連学校の授業システムの話も興味深い。ノートは正方形に近く、必ず綴じ目から30%程度の位置に線を引き、子供は70%部に記述をする。教師は30%部に添削したり、いろいろする。土日は休みなので宿題は出ない(出してはいけない)ので生徒も先生も勉強せずに休む。したがって宿題は月曜から木曜まで。みっちり出る。ということは先生方も火曜から金曜までは子供が帰ったあとにみっちり添削をやり続けることになるのだろうなぁとか。でも土日は休み。筆者が夏休みの宿題をなれない外国語でうまくやれるかと心配していると、クラスメートが驚く。なんで夏休みに宿題が出るの? 休みだよ。というわけで、休みにはみんなで旅行へ行く。

ルーマニア人の主人公の家族の生活を見ていて著者は共産主義のおかしなところに気付く。自分の父の実家(太平洋戦争中というか、治安維持法施行下の日本で地下活動をしていたのが、戦後、やっと帰れることになった)の豪華さにびっくりする。つまり、金持ちの子息が平等のためにせっかくの良い身分を捨てるものだと思っていたのに、著者の実家以上の金持ち生活をしているからだ。もっとも、主人公の父親もファシスト政権時代には投獄され、拷問され、そのため片脚を失っている。だからといってなぜ貴族(平等な社会を作るために無くしたはずなのに)のような生活ができるのか? と不思議に感じる。

それはチャウシェスク処刑以降も変わらない。チャウシェスクのパリ化計画の途中で放棄されたため半ば廃墟と化したブカレストの中心街から離れた郊外の高級アパートで多数の警備兵に守られて暮らす主人公の両親。しかし、主人公はイギリスでイギリス人と結婚して暮らしている。ブカレストの街を案内してくれる通訳と話しているうちに、ユダヤ人差別についてわかってくる。さらに研究者として普通の市民の生活をしている兄貴と再開する。研究者はユダヤ人ばかりだから、この中にいる限りは差別はないけど……というような会話。

そして最後がユーゴスラヴィアだ。

僕自身がユーゴスラヴィアにはいろいろ思い入れがあるため、この作品が一番心に残る。

共産党による中央集権計画経済ではなく、工場単位の自主管理による計画経済(おそらく、プラハの春でオタ・シクが目指したのも、ポーランドの連帯が目指したのも、ユーゴスラヴィア方式のはずだった)を導入したために、ソ連の敵となり、しかし共産主義である以上は米国の敵であり、結果的に第三世界をまとめてその代表として他の国へ自主管理社会主義を輸出するはずが、超大国中国がソ連と敵対したために第三世界の代表に収まってしまい、(ということは、自主管理社会主義を積極採用する国家は続かず)、さらにチトーなきあと5大統領制へ移行した途端に、仲の良かった兄弟に甘い言葉をささやく悪魔が近づき、気付くと国家は分裂して激烈な内戦が始まっていて、互いに民族浄化といって成人男子は殺し、成人女子は犯し、子供の男の子は去勢するという、それが20世紀のヨーロッパなのか? という状態となり、なぜか同じことをやり合っているのに、片方の側にアメリカとNATOがついてもう片方に無差別空爆を繰り返し(主人公のおばさんが爆撃で死ぬ)、最も混乱状態に突入する。ところで、チトーが死んだあとの分裂っぷりは、アレキサンダー大王亡きあとのマケドニアの分裂っぷりみたいだ。

にもかかわらず、ブカレスクから列車に乗りベオグラードへ着くと、その豊かさに目を見張ることになる。

しかしなかなか主人公を見つけることはできない。そのうち、おそるべきことがわかる。主人公の父親、対ドイツレジスタンスの英雄でもある、はユーゴスラヴィアがユーゴスラヴィアだった時代のボスニアの大統領で、つまりは現在最も内戦が激しい国なのだ。

筆者はボスニアへ行こうとする。ばかを言うなと通訳に一喝される。国境は封鎖されているし、そもそも国境が危ない。先日もムスリム人の難民が200人ほどクロアチア人に襲撃されて大人の男は皆殺し(以下メニュー通り)。救助活動が大変だった。しかもあんたはどう見てもクロアチア人ではない。

最終的には他の作品同様に筆者は主人公に邂逅する。彼女はベオグラードの普通の団地に住んでいる。なぜ? と、筆者はルーマニアの友人の家を思い出して聞く。なぜもなにも、最初から私の家はここよ。父親が大統領だからってなんで子供が優遇されるの?

でも、彼女の生活は必ずしも幸福なわけではない。ムスリム人だからだ。表だっては言われないが(なぜならクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナが出ていったとはいえ、ベオグラードはユーゴスラヴィア共和国なので差別は基本的にはない)、それでも非セルビア人に対する圧力がかかっているのがわかるからだ。夫はモンテネグロ人。兄弟の中で一番チビなので、たった198cmしかない。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)(米原 万里)

3篇の順序がうまい。最初のギリシャ人はインテリな父親。次のルーマニア人は政府高官、最後のユーゴスラヴィアは少数民族の大統領(にまで上る人)。最初のギリシャは軍政から民政移管がされた資本主義の国、次のルーマニアは極度の鎖国的スターリン主義の国、最後のユーゴスラヴィアは自主管理社会主義国家。最初のギリシャ人の夫、次のルーマニア人の夫、最後のユーゴスラヴィア人の夫、それぞれうまく対比がある。どこまで実話でどこからが創作なのか、実にうまい。

ユーゴスラヴィア篇の主人公の父親が語るレジスタンスへ身を投じるきっかけとなった教師とのエピソードはユーゴスラヴィアの作家の作品を元にしたらしいが、20世紀の終わり頃に作られたスペインの反ファシスト闘争映画にも同じような主題のものがあったなぁと思った。子供を守るため、国家に命を張って歯向う教師というのは普遍的なのかな? で、自国の勝者の立場から見れば、敗者の側に立って殺される教師は非国民だが、他国のより妥当な政治的立場の人間から見ればむしろ愛国心の固まり(なぜなら国家の未来である子供を守ろうとしているわけだから)であり、感動的な物語の主役である。これは矛盾ではなく、前者の見方がおかしい。であるならば、国家の強制に対して、それが強制である以上、断固たる拒否の態度を貫く教師というのは、国民が最も信頼すべきものではないか。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ はら [僕も読みました。Kindleでね。もちろん面白かったですよ。]


2013-07-31

_ 月刊少女野崎くん

子供が友達から借りてきて、おもしろいから読めと貸してくれたので、読んだ。確かにおもしろい。最初は大しておもしろくないじゃんと読み始めたが、4輪自転車のあたりで表情の書き分けがうまいなぁと読み込み始めて、気付くと借りた3巻いっき読みしてた。

月刊少女野崎くん(1) (ガンガンコミックスONLINE)(椿 いづみ)

高校生学園おばかものだが、とにかく構造が良い。表現形態は4コマ漫画なのだが時間軸に沿って進み、全体を通して物語がある。

主役は少女漫画家の野崎くんと、その友人たちだが、主要な登場人物はマンガ家とアシスタントという関係であり、しかも高校生活ではそれぞれの部活があってそこにはそこの関係があり(そういえばクラスという枠組みはほとんど無いなぁ)、しかもその関係性と個々の人物の性格を描かれているマンガの中の登場人物に反映させているという設定で、つまり3段重ねになっている。

それが、学園おバカ漫画なのに妙なネジレと客観性が加わって読ませるんだろうな(絵が読みやすいというのも大きいと思う)。


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