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多分、XかBskyで著者が宣伝しているのを見て、タイトルが良いなと思った。
『将棋の子』『天気の子』『推しの子』『バケモノの子』と、「ノコ」がつく作品には外れがなかったからだ。
というわけで『暗号の子』を買って読み始めた。表題作はなんかセンチメンタル風味が気色悪くもあり、気持ち良くもあり、得体の知れない感触を味わったがおもしろい。続く作品の指輪物語引用まで来ると、さすがにギーク趣味に猫なで声みたいな印象を受けて(これが気色悪さと気持ち良さの原因なようだ)イラっとしなくもない。が、おもしろい。
なぜ父と娘の物語なんだろう? と思いながら3作目のローパスフィルターに手をつけたところ、これは抜群におもしろい。少なくともしばらくいろいろ思索に入らさせられた。
ローパスフィルターという作品は、わりとどうでも良い内容のアイディア勝負の短編で、Twitterに対して過激な投稿にフィルターをかけるアプリ(の機能が表題のローパスフィルター)が大流行する。このアプリを通すことで、極度に過激なツィートが殺されて、平静な呟きが流れてくるようになるので読んでいて不快になることはない。
ただ、それによってこれまでバズってた人たちのツィートのエンゲージメントが減少というよりも全滅し始める。それによって承認要求の鬼のようになっていた絵師やらで自殺する人が出てきて社会問題となる。
語り手は、開発者がナチズム(反ユダヤになる前の精神病者を隔離して殺しまくっていた初期)の信奉者なのではないかと疑い、いろいろ調査するが、そのような傾向は無さそうに見える。要はツィートから心を病んだ人を拾いだしてフィルターしているのではないか? という疑いだが、直接会ってインタビューするのだが、どうもそうは見えない。しかし友人の技術者に精神病者フィルターを使ったテスタープログラムを試作させて実験するとほぼ排除論理が一致することもわかる(LLMによるフィルターなので具体的なアルゴリズムはわからない、ということにしている。現実にはその速度のLLMは無いのでそこはSF世界)。
最後、開発者が自殺した後に、推測がほぼ当たっていることがわかる。開発者はフランクフルト学派の哲学を通して啓蒙によるドグマからの開放を目指した過程として最初に啓蒙できない存在を言論空間から抹殺することを行ったのだった。その結果が精神病者の排除だった。
(こうやって要約してみると、うまいこと短編にまとめるための牽強付会が過ぎて、小説としては楽しめるのだが、、さすがにめちゃくちゃな話だ)
おもしろく感じたのは、したがってこの小説そのものではない。
ここで極度に要約されたフランクフルト学派(の作家による解釈)の、啓蒙によってドグマに捉われるという点だ。
人類の歴史を振り返ると、大虐殺の前には教育と啓蒙、結果としての言論の自由(と、それを行使できる言論空間)がつきまとっている(腹減ったから戦争しかけて相手を皆殺しして食料を奪うというのとは別の話)。
一番巧妙に利用(それも2回も)したのは毛沢東で、最初は反右派闘争に入る前の百家争鳴、次は文革直前の大字報の開放で、おれはこれまで前者は権力が盤石となったので手綱を緩めたところ意図せぬ言論が続出したのであり、後者は党からのはぶりを感じ取って大衆に訴えるための戦術と考えていた。しかしそうではなく毛沢東は意図的に自由な言論空間を作り出したのではないか?
自由な言論空間によってさまざまな意見が出てきたところに、ちょっとしたバイアスを与えると勝手に殺し合いが始まるシステムが人間に組み込まれている、のではなかろうか。(言論の過飽和による結晶化現象だ)
1789年。パレロワイヤルでの演説会にパリ市民が結集。バスティーユの襲撃にいきなり万を超える市民が参加できるのは、街頭演説や(マラーやエベールが始めた)新聞という言論空間があってのことだ。
1920年代。
ワイマール共和国が未だに世界最先端の社会民主主義国家で、労働者たちは工場の帰りにビアホールへ行き政治談議を活発に行い(ナチスの出発点はミュンヘンのビアホール一揆だ)、インテリは自分たちの研究を語る。
ロシア革命直後の数年間。前衛としてマレーヴィチやプロコフィエフが突っ走り、その一方で、ドイツ同様、労働者がソビエト(初期のソ連では、各地の地方ソビエト、各工場に工場ソビエトと、ソビエト(合議会)が大量に作られていた)で社会の未来を話し合う。この言論の過飽和状態にスターリンが、この自由を甘受し続け輝ける未来を獲得するためには、ユダヤ(国際資本)とその尖兵のトロツキスト排除が必要という揺さぶりをかけたことで結晶化が起きる。あまりの牽強付会っぷりにブハーリンは、労働者には国境も民族もないのになぜ反ユダヤとか言い出すのか! と叫びそうになるのをぐっとこらえる。
こういったことを逆から考えると、自由な言論空間を封鎖することで、啓蒙を抑制できる可能性が強い。
1970年代日本の(特に愛知において顕著な)三高禁が学生運動の芽を摘むための施策だったのは有名だし(したがって高校生の言論空間が狭まる)、京大については先日やっと実行したようだが、学生たちの言論空間であった学生寮の廃止というのもそういう施策だ(一方、富裕になると勝手にサイロ化するので経済政策も重要)。
作家がおそらく書いた時期はイーロンマスクより前だと思うが、誰でも何かを投稿(まとまった文章を記述する能力は不要だし、ゴミの壺とはいえ2チャンネルのようにスレッドの流れがないので論旨や現在のトレンドなどを読み取る能力も不要)し、それが誰かに読まれて「いいね」のような反応を得られる言論空間としてのツィッターに、何か良からぬものの誕生を見たのは、作家として慧眼だと思うわけだ。
その後も淡々と読み進めるわけだが、AIに書かせた小説で墜落死に対して巨大な隕石を打ち落とすという比喩を出してくるのには驚いた(この小説はすごく退屈なのだが、このフレーズだけ光っている)。
『最後の共有地』はきれいにまとまっているなぁと読み終わろうとした瞬間にまた父と子が出てきて、この母親の不在っぷりはいったいなんだろう? と思ったところで70%。
70%までの印象としては、共有地の悲劇に気を取られ過ぎて、実はノウアスフィアが開墾され続けていることには興味を持てないのかなぁとか、作品を使って世界を再構築することはノウアスフィアの開墾そのものだから特に意識もしていないのか(あるいはノウアスフィアの開墾という概念が古びてしまっているのだろうか?)というような点に引っ掛かる。だが、「いいね」を求める行為そのものがノウアスフィアの開墾の本質なわけだから、これらの果実は開墾されたノウアスフィアの上のものだ。
妻がプライムビデオにあんたの好きそうなマーラーがあるけど観る? と教えてくれたので観た。
もちろんマーラーは好きだが、ケンラッセルはそれほどでもなく(というか機会がなく)、地球に落ちてきた男ですら観ていない(多分、トミーとオルタードステーツとチャイコフスキーくらいしか完全に観たのは無いのではないだろうか)。
というわけでわくわくしながら観た。
なんかケンラッセルの若書きらしく、妙に気取っていて幻想シーンや夢のシーンが、いかにも60年代後半のアメリカン・サイケにアランレネ風な欧州臭さを振りかけたような画造りなのだが、微笑ましいくらいにはうまく作られている。
というかロバートパウエルという役者が写真で見るマーラーそっくりなのには恐れ入った。
素晴らしいのは第6交響曲を作曲するために借りた湖畔のステージのシーン群(何度も挿入される)で、驚くほどちゃっちい作り物(全然違うのだが、ポールシュレイダーの三島の金閣寺とダブって見える)でアルマとグスタフがじゃれ合うのがとても愉しい。グスタフの静寂のためにアルマがカウベルを外して、羊飼いの笛を没収して、教会の鐘を止めて、ブラスにあわせて踊る村人たちのブラス隊を止めさせて(??忘れてしまっているが、酒を飲ませるのか、飯を食わせるのか、どうやったかなぁ)憤激する村人を自分の指揮で無音で踊るように懐柔する。というのが交響曲6番ではなく3番に合わせてカウベル、2楽章冒頭、ピムパムピムパムの児童合唱、レントラー(3楽章かな)に重ねる。おもしろい。実におもしろい。
これは映画そのものだ。あと、二人の子供(驚くほど無邪気でかわいく見える子役を2人も揃えている)、亡き子をしのぶ歌の直後の死(嘘臭い)、唐突に登場するアルマの愛人のマックス(誰?)、皇帝になりきったフーゴヴォルフ(最後は癲狂院のほとんど地下牢の片隅で全裸で歌曲を書いている)、弟の死、マーラー自身の火葬と告別式、唐突(話の流れからは全然唐突ではないのだが、映画の中の映画として)に挿入されるコジマワーグナーとの闘争(ユダヤ教からカトリックに改宗してウィーン宮廷楽長の座を掴む)、子供の頃の水泳、森、漂泊者との出会い。突然始まるヴェニスに死すのパロディ(もしかしたらケンラッセル的にはオマージュなのかも知れないが、どうにも悪意がある低俗化に感じる。とはいえ、「いょ! マーラー撮るなら、これはやりたかったよなぁ」とケンラッセルの肩を叩きたくなるような雰囲気はある)。
スタイルは70年代前半のサイケなので、ひなぎくみたいだなぁとかセリーヌとジュリーは舟で行くよなぁとかいろいろ相似した映像が見えて、ケンラッセルもまさしく時代の子だとは感じるのだが、それでも大変おもしろかった。
なぜか、第6の第1楽章の第2主題をアルマへの愛のテーマとして(実際にそうなのかどうかまでは知らない)、鳴らせながら(確かに唐突に第2主題が提示されるところの美しさはこのうえない。特に再現部での美しさが凄いが、その後になぜマーチになるのか不可解でそれがマーラーだなぁと思う。そういえば駅にブラスバンドが迎えに来るというのでマーラーが激怒して、なぜよりによっておれさまが一番嫌いなブラスバンドなんだ! と怒鳴りまくるとアルマが、あんたが曲の中で使っているからじゃんとたしなめるとか)、マックスではなくグスタフをとったアルマと抱擁しながら、追いかけて来る医者の後長くて2週間の命という情報がこちらだけに提示されているところで終わる。
最後にストップモーションで大写しになる使った音源の指揮者がハイティンクで、あーそうなんだーとちょっと白けてしまったが、別に悪いものでもない。
マーラー好きなら、その曲をそう使うのか! という点でもおもしろい。子供の頃、いやいややるピアノレッスンで教師がいない間に第4番を弾いたりとか(と書いた時点で怪しくなって聴き直してみたが4番ではないな。なんだっかな? 今となっては結構怪しくもなっていて、映画の冒頭は2番の冒頭だと思いながら聴いていた(復活だから意味的にもぴったりだ)がどうも違う。セリフで第3番と言うので、そうだったかと思いなおしたりとか)。
島田さんが訳された『ソフトウェアアーキテクトのための意思決定術 リーダーシップ/技術/プロダクトマネジメントの活用』が上梓されて、いきなりアマゾンのベストセラー1位(ジャンルでだが)になっていて目出度い。
レビューを手伝って物理本を貰えたので、以下に紹介する。
原著者はスリナス・ペレラ(と読むのか?)という感じなので、インドの人なのだと思う。
だからというわけでもないだろうが、(米国の教科書的なやつで)ドグマとなっていることでもゼロベースで異を唱えられるのだと思うが、そうそうそうだよ! というようなこともたくさん出て来る。
とても良い。
本書の主張は、ソフトウェアアーキテクトは問題について正しく判断して方向を決めろ、ということだ。特定の技術、ベストプラクティスを偏愛するのではなく、その時その時の問題に合わせて自問自答することで、最適な方策を考えろということ。
したがって、適用可能な技術やベストプラクティスに対する知識は大前提となる。また、それらを並べたり、特定のものを推す本は多い。
しかし本書の主眼はベストプラクティスを並べたり、説明することではない。その点が、本書をして類書とは全く異なるアスペクトの提供を可能としてい。
本書の1章で説明しているが、5つの質問と7つの原則を元に、ゼロベースで(知識ではなく直面する問題領域に対して)適切な判断を行うにはどうすべきかの方法論(書名に合わせれば「術」)を説明する。
この、ベストプラクティスなり技術なりを適用するための思考過程を分解して整理した点が本書の極めて優れた点だ。
2章では1章で示した5つの質問と7つの原則を詳説する。これが「術」の内容となる。章末に2つのサンプルを使って簡単な適用を示している。
ここまで読むと、本書の価値がはっきりとする。筆者はよくよく経験を積み、自分の方法をうまく形式化して、それを書籍としてまとめたのだ。このため、カタログ的にベストプラクティスを並べて素っ気ない適用対象を付けたものとは異なり、どう考えて結果を導出するのかがわかりやすく示される。
3章では「パフォーマンス」を取り上げて、主たる問題のモデル化と、具体的なテクニックの適用を示している。この章はおもしろい。
4章になるとさらにおもしろい。具体性が増すからかも知れない。
UXの原則を6個掲げて、3つの課題(に対してどうデザインするか)を取り上げて考え方を示す。
結論がUXエキスパートをチームに入れてアドバイスを聞けになるのだが、納得せざるを得ない。
5~10章はマクロアーキテクチャ(分散システムレベルの大きなシステム全体に適用するアーキテクチャという程度の意味だと思う)として、オーケストレーション、トランザクション、セキュリティなどについての判断方法について詳述していく。
特に7章はうなずきまくり。流行完全無視して、単一トランザクションで処理できる範囲に可能な限り留めろとする。そうでなければシステムは複雑化するし、複雑化したシステムを設計、実装、構築、保守できるか? と、自分が使えるリソースと実現可能性を正しく判断しろと迫って来る。
この著者を信用できると判断するポイントの一つでもある。
8章は読むのが難しい。セキュリティへの対応なのだが、元々難しい問題なので、徐々に難しくするとか失敗の元、最初から難しいと覚悟を決めて難しさに挑め、という結論なのだが、章自体が難しいから難しく書かれている。
が、腰を落ち着けて読み解く価値がある(少なくとも僕は読んでえらく勉強になった)。
9章は高可用性とスケーラビリティ。良い。
「その過程で設計を複雑で脆弱なものにしてしまい、それがしばしば障害やレイテンシーへとつながる」
壁に貼るべき。
7章で切り捨てたようでいてマイクロサービスについても利用すべきと判断することは当然あるので、10章ではマイクロサービスを開発するにあたっての決断を要する点と考慮点を説明。
11章はサーバーアーキテクチャという題でマクロアーキテクチャとは分けている。
この章は読んでいておもしろいのだが、うまく分類できないことを詰め込んだ章なのか?(要は要約しにくい)。
キューイングによるアプリケーション(サービス)連携やアプリケーションの実装形態(CPUセントリック、メモリセントリック、IOセントリックなど)を、どのような課題に対して適用するかの判断方法などが書かれている。
12章はどう考えれば「安定したシステム」を構築できるかについて。
必読。
最後の13章がまとめなのだが、全体を振り返って個々の要素を結合して、どうシステムを進化させていくかまで。
最初の節の題が「実際にやってみる」、各項が「基本に忠実に」「設計プロセスを理解する」「決定を下し、リスクを負う」「卓越性を求める」
かっこいいし、鼓舞されるものがある。
不思議なのは、最近の島田さんが翻訳する上位技術者本シリーズはどれもとても良いのだが、島田さんが選んでいるのか、それとも出版社側が、本国で~だから翻訳したいが、このジャンルなら島田さん、という道筋で来ているのか、良い本が集中している。
ソフトウェアアーキテクトのための意思決定術 リーダーシップ/技術/プロダクトマネジメントの活用(Srinath Perera)
今回の指揮のトマーシュ・ネトピルは序曲から良い感じ。特にフーガに入るところが絶妙で期待が高まる。とはいえ、やはり1幕は退屈だ。
一方、前回と同じく、ザラストログループ(今回は前の新自由主義者の巣窟というよりも、アカデミアっぽく感じたので悪い印象が薄れた)のパートが抜群。
また前回同様に、パパゲーノがいまいち違う感じがして、特にパパパがどうにも盛り上がらない(ここがこの劇で一番好きなシーンなのだが、この演出では、炎と水の試練の入り口のパミーナとタミーノの和解が一番の盛り上がりとなり、しかも抜群に良い)。
結局、演出の構造からパパゲーノグループはザラストログループの手の上で踊らされている感が強過ぎるのが、音楽にも反映されているとしか思えない。あと、このパパゲーノは笛(タミーノと違って自分で吹いている)と歌の間合いの取り方のせいか、最後の音が最後まで持ち上がらないのが、歯切れの悪さを助長している。
夜の女王は最初のほうは微妙だが、最後のザラストロトロトロの歌は堪能した。
あと3人の童子がとても良かった。この3人は一体なんなのだろう? あくまでも中立な立場で人に優しくする役回りなのだが、生まれてこなかった子供たちなのかなぁ。
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