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日々の破片

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2014-06-03

_ Swiftはすごい

朝起きたらTLでSwiftという文字が躍り、まさかのスィフト復権かと思ったらWWDCを受けての話で、どうやらアップルが新しいプログラミング言語を投入したらしいとわかった。

ガリバーの宇宙旅行 [DVD](坂本九)

たかがアップルの新しいプログラミング言語で何を騒いでいるのだろうとすごく疑問だったが、そんなにみんなObjective-Cが嫌いだったのかと(それにしてはえらく利用されているっぽい)感じたくらいだった。

そうは言っても、とりあえずdeveloper.apple.comを眺めると、SwiftについてはThe Swift Programming Languageという本をiTSで無料で配布しているからiBooksで読めと書いてあるので、とりあえず後で読むことにして昼の仕事に戻った。

で、帰って来てSwift本をダウンロードして読むかと思い、ふと気づくと、MSDNと違って個人ではdeveloper登録していない(勤め先のはある)のでダウンロードできるか不安になった。が、何の問題もなくiBookのストアからダウンロードできて、とりあえず5ページくらい読んだわけだが、最初のページから衝撃的だった。

It is the first industrial-quality systems programming language that is as expressive and enjoyable as a scripting language.

何がって、この書き方だ。

たとえば、Sunが末期にJava6についてEoD(Easy of Development)と大騒ぎしたことがあった。あるいはMSDNでC#の能書きを見てみよう。

C# は、シンプルかつ強力で、タイプ セーフのオブジェクト指向言語です。 C# が備えている多数の革新的な機能を使用すると、C 形式の言語が持つ表現力と簡潔さを維持しながら、アプリケーションを迅速に開発できます。 ( http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/kx37x362.aspx )

こういった能書きって、誰のためにプログラミング言語の説明をしているのだろうか? 一見するとプログラマーのためのように見えるかも知れないけど、それは違う。EoDだとかRapid Developmentというのは、プロダクトマネージャやプロジェクトマネージャを向いた言葉であって、プログラマのための言葉ではない。

当たり前だ。

ソフトウェア製品でビジネスをするにあたって、「enjoyable」をどこのマネージャが気にするのか? でも、EoD(ばかでも開発できる)やRapid Development(猿でもさくさく開発できる)といった説明はマネージャには魅力的だ。

そこでそういえば、「楽しい」が言語の特徴のプログラミング言語を想起する。

たのしいRuby 第4版(高橋 征義)

プログラマーがプログラマーのためにプログラミングしたプログラミング言語だ。

そういうことか。

アップルは舵をきったのだ。

かってバルマーがダンスを踊ったが、そのダンスはプロダクトマネージャダンスでありプロジェクトマネージャダンスだったに違いない。

ところが、アップルはプログラマーダンスを踊ることにしたようだ。

そりゃ、TLが埋まるはずだ。プログラマーの時代という雰囲気が醸成されているのだ。

さらにhello worldを見て、その徹底っぷりに驚く。

型混交の文字列連結がエラーとなる。

JavaでもC#でも文字列処理がEoDのキーだ(Cから移行して何が楽かって文字列処理だからだ)。

var s = "4 * 4 = " + (4 + 4);

ところがたのしいRubyではエラーとなる。

irb(main):001:0> s = '4 * 4 = ' + (4 * 4)
TypeError: no implicit conversion of Fixnum into String
        from (irb):1:in `+'
        from (irb):1
        from C:/Users/arton/Documents/bin/irb.bat:19:in `<main^gt;'
型混交の文字列連結なんて別に楽しくもなんともないから当然だ。 かわりに埋め込む。
irb(main):002:0> s = "4 * 4 = #{4 * 4}"
=> "4 * 4 = 16"
そしてSwiftは、
prinln("4 * 4 = \(4 * 4)")

別にそこまでRubyみたいにしなくても良いのに。

というのはどうでも良くて、しかもそれが、the first industrial-quality systems programming language だと言い、しかもその直前には「Swift is firendly to new programmers」(初心者大歓迎)と言い切っているのだ。

産業レベルの品質のシステムプログラミング言語で。

かって、MSは開発者を大事にして成功をおさめたが、今は停滞して見える。開発者というのは、プログラマーではなかったから、企業レベルではそうはいってもマイクロソフトは使われていて、(それなりに)愛されている。おれも愛している。

しかし個人の時代なのだ。「パーソナル」コンピュータは真にパーソナルには行き渡らなかったが、スマートフォンは異なる。本気でパーソナルだ。そして、そこではマイクロソフトは覇権を握っていない。

アップルも開発者の重要性に気付いた。しかも、MSが覇権を握っていた時代と今が異なることも知り抜いている。

個人の時代において開発者というのはプログラマーで、できればenjoyableなプログラミング言語でプロダクトを開発したい連中だ(AppStoreのようなマーケットは個人に開かれているからだ)。そして、まだプログラミングを初めてもいない中学生や高校生、もしかすると小学生だったりする連中を取り込めば、10年以上の覇権を掌中に収められる。

もうジョブズはいない。

ならばジョブズを作れば良い。プログラマーを全世界の全年代から山ほど集めれば、一人か二人はジョブズが見つかるかも知れない。

それがSwiftなのだろう。


2014-06-05

_ フリットリのリサイタル

オペラシティのタケミツメモリアルホールで、フリットリのリサイタル。

第一部は歌曲で、デュパルク、ベルリオーズとフランス圏が続いて、最後はトスティという知らないイタリア人。知らないはずで、オペラ全盛期にあって(オペラ作曲家以外は作曲家にあらずという状態だったらしい)ひたすら歌曲を作った人らしい。が、これが実に良かった。というか、ジャンルは歌曲だがオーケストレーションもフレージングも同世代のオペラ作曲家と同じ空気を吸って吐いている。

最初はドニゼッティの聴いたことがないオペラの序曲。つんのめるような妙なリズム感にとまどう。

第二部はオペラのアリア。最初が皇帝ティートのやつ。で、小さな机、アイーダときて、トスカ。

でも実は(おれにとっての)本命はアンコールだった。最初がフィニートで終わる良く知っている曲(が思い出せなかったがアドリアーナルクブルールの最後のところだった)、次がアドリアーナルクブルールの私は卑しい僕です。最後がまったく知らない曲だが、オーケストレーションと最後のハープでマスカーニとわかる(友人フリッツらしい)。

これでおしまいと歌って、それでもアンコールが来るから、私は卑しい僕ですと来て、それでもアンコールが来ると友人フリッツ(が、これが前の2つのように洒落になっているのかはわからない)。

というわけで、曲については最後になればなるほど好きなのだが、それと声は別で、フリットリの声は部分部分で共鳴して実に美しいのだが、特にトスティで顕著だった。

帰り、初台から京王線に乗らずに新宿方向へ歩いていたら、ウィグル料理の店があったので、舌のサラダ、カワブと串焼き、干しぶどうが入っていてヨーグルトをかけて食べるチャーハンみたいなの(ポロ)を食べる。ja.Wikipediaを見ると、食べたのと良く似た写真が出ていて、なんというか見た目にバリエーションが無い料理というか、どうあってもこうなるという伝統というかを感じて、妙な感じになる。いずれにしても、おれが一番好きな地域の食べ物は今のところ中央アジアのもののように感じる。というか、ユーラシアの料理はドーバー海峡から親潮までの間でほとんどはずれはないような気がする(ラオスの料理は食べたことないけど)。


2014-06-06

_ Ruby-2.1.2 with openssl-1.0.1h

Ruby-2.1

(これまでタイニーまでバージョン番号を入れていたけど、2.1.xルールでは煩雑過ぎるので、マイナーまでに変更した)

md5: 906d3d34eed201f923ddea909a8d4d5a
サイズ: 21,177,856

riは含みませんが、Diceさんのrumix版リファレンスや、mirichiさんのDXRuby-1.4.1は同梱しています(今気づいたけどDXRubyリファレンスを入れていないのはあまり良くないな)。

OpenSSLチームを含む各位に感謝しつつ敬意を捧げます。

だめだこれ。Socketの子プロセス継承バグ持ちのままじゃん。廃棄。

以下のパッチ(Bug#9688)をstableなruby-2.1.2のターボール当ててあらためて作り直しました。2.1系に取り込まれたのが6月2日だから当然ですね。

--- win32.c~    Fri Jan 31 12:07:00 2014
+++ win32.c     Fri Jun 06 19:54:07 2014
@@ -3017,6 +3017,7 @@
        if (fd != -1) {
            r = accept(TO_SOCKET(s), addr, addrlen);
            if (r != INVALID_SOCKET) {
+                SetHandleInformation((HANDLE)r, HANDLE_FLAG_INHERIT, 0);
                MTHREAD_ONLY(EnterCriticalSection(&(_pioinfo(fd)->lock)));
                _set_osfhnd(fd, r);
                MTHREAD_ONLY(LeaveCriticalSection(&_pioinfo(fd)->lock));
@@ -3557,6 +3558,8 @@
                }
                if (out == INVALID_SOCKET)
                    out = WSASocket(af, type, protocol, NULL, 0, 0);
+                if (out != INVALID_SOCKET)
+                    SetHandleInformation((HANDLE)out, HANDLE_FLAG_INHERIT, 0);
            }
 
            free(proto_buffers);
@@ -3790,7 +3793,7 @@
            r = accept(svr, addr, &len);
            if (r == INVALID_SOCKET)
                break;
-
+            SetHandleInformation((HANDLE)r, HANDLE_FLAG_INHERIT, 0);
            ret = 0;
        } while (0);
 

Ruby-2.1

(これまでタイニーまでバージョン番号を入れていたけど、2.1.xルールでは煩雑過ぎるので、マイナーまでに変更した)

md5: 18331eb8af8d6e6a7693d48c2b47327d
サイズ: 21,175,808
(なんで20Kもサイズが変わるんだろう?)

@kishi24さんにロケールの指定ミス(というかニュートラルにしているのにメニューに日本語を書き込もうとしている矛盾というか)を指摘いただいたので再作成しました(メニュー文言を変えずに日本語ロケールにした)。DXRubyのリファレンスも同梱しています。
md5: d21c681fc8a2cf9cb59d267c37d32d90
サイズ: 21,371,392

riは含みませんが、Diceさんのrumix版リファレンスや、mirichiさんのDXRuby-1.4.1は同梱しています(今気づいたけどDXRubyリファレンスを入れていないのはあまり良くないな)。

あらためてOpenSSLチームを含む各位に感謝しつつ敬意を捧げます。


2014-06-07

_ 影のNo.2という存在

以前購入したまま、下巻が店頭にないので放置していた龍のかぎ爪 康生の上巻を読了(なんかKindle疲れしたのか、紙の本を読みたくなったらしい。というか、登場人物が100人をゆうに越えて、それぞれが固有の役割を持ち、思想をころころ変えながら歴史の大波を潜り抜けたり沈み混んだりというか浮沈という言葉があったが、するタイプの本を読むとなると、すぐに3ページ前や10ページ前は1/3あたりや1/5あたりや、冒頭近くや、5年前の記述あたりといったことで読み返しが必要となり(複写的な記憶力は持ってないので、リレーションシップのみで記憶しているからだ)、そういう場合にはKindle PWのめくりの遅さは完全に役立たずなので、紙の本で読んで良かった。仮にこれをブックマーク機能を駆使するとなると、ブックマークの数も100を優に越えることになり、Kindle PWの速度ではブックマークをめくるだけで意味ないことになるし、検索語はすべて独特な固有名詞となるため、単漢字の最後のほうなので入力すしているだけでやはり意味を失する)。

結論:まともな本は紙で読むにかぎる(現在の技術力では)。

龍のかぎ爪 康生(上) (岩波現代文庫)(ジョン・バイロン)

この本は、康生という毛沢東の影(ここ重要)の側近で、この本を読む限り数千万人の命をひねりつぶした男についての評伝だ。

上巻なので、19世紀の最後に大地主の子供として生まれ、1920年代の上海で共産党のテロ組織の首魁として国民党と戦いながら、都市共産主義の末期にソ連に渡りNKVD(元のチェカー、KGBの前身)と共同歩調を取ってトロツキスト狩を行い、と同時にスターリンの権力闘争の方法論をがっちりと学習し、延安に渡り最初王明派、すぐに毛沢東派にくらがえし、整風運動を指揮、整風運動のやりすぎで中央を追放されると、反地主闘争を指揮して大成果(まったくおぞましいことだ)を挙げ、中央へ復帰しつつある(1950年代)ところまでが書かれている。

歴史の本なので、南京で日本軍が(この本の本文では)最低1万(注として西側の見解では4万(従軍した親戚から聞いた話からは妥当な数)、中国側の見解では30万(さすがにこれは自分の被害を白髪八千丈の文脈だろう))の市民を殺戮したことが書かれているが、すぐに整風運動で数万人が犠牲になっただのと出てくるので、日本の蛮行がかすんでみえる仕組みとなっている(とは言え、整風運動の前哨戦として、日本軍のスパイ(実際に多数いたようだ)という名目でばんばん殺しているから、エクスキューズ付けに利用されているのはこちらのせいだ)。反地主闘争では全国で数千万という数も出てくるが、ベースが当時で8億人いるから、数千万の犠牲は問題とならないのだろう。

読んだ限り、反共主義者が書いた針小棒大な悪の帝国本ではなく(それでも数千万という単位で人が殺されるわけだが)、それなりに信憑性が高そうに思える。1990年代あたりの、比較的冷静な中国観(それより前は文革支持派の毛沢東万歳な本が多く、現在は反対方向に振り切った反毛沢東本が多い)で記述されているという印象を受けた。

まず、この本を読んで最初に興味深いのは、当時の上海租界がどういうものだったかがうまく描写されていることだ。

青幇杜月笙のように表面的な歴史の本ではあまり言及されない人物から、これまたあまり言及がない李立三の冒険主義的指導まで書かれていて、あああれは実際にはこういうことだったのだろうな、というこれまで読んだ中国の歴史についての断片の整合性が取れる感覚を味わった。

なんというか、康生のその後の思考回路にえらく影響を与えたに違いない(この本は個人的な指向の問題としているが、そうそう世の中おかしな考えの持ち主ばかりではないと、ハンロンの剃刀を使えば、そう結論せざるを得ない)。国民党の上海クーデターという裏切り(それは青幇の裏切りでもある)以降、国民党、日本軍、青幇はじめとした地下結社、モスクワ寄りの共産主義者、農民寄りの共産主義者(ただし上海にはいない)、陳独秀のような公然たるトロツキストが、それぞれのスパイとテロリストを抱えて、しかも共産党内部での細かな派閥による権力闘争が同じくスパイとテロリストを抱え込んで行われているところで、組織の長として内部からの追い落としを避けながら、本物の敵の攻撃から身をかわしながら生き抜くには、すべてを疑い、水に落ちた犬を叩く精神を貫かなければ生き抜くことは不可能だからだ。

それにしても、整風運動までは良いとして(権力闘争の範疇だからだ)、反地主闘争のあたりは実に胸糞悪い。戦中に共産党のために貢献した地主(地主だから貢献できるわけだ)の名字が牛だということから、鼻輪をつけて顔面血まみれのまま村中を引きずり回すところなど、とても本当のこととは思えない(が、本当なのだろうなぁと信ずるに値するのは、それが方法論として康生の中では確立しているのがそれまでの記述から理解できるからだ)。

そういえば、これほどの重要人物なのに、なぜおれは、康生という名前に聞き覚えが無いのだろうかと読んでいて不思議になる。それ以外の中央委員かそれに準ずる連中についてはほぼわかるのだが。

で、開放改革路線のおかげで出て来た廬山会議が中国共産党の人間関係の知識の源なのだから、ここには康生は出席していないのかな(歴史的には下巻となるはずなので、上巻では当然ながらまったく言及されていない)と読み返してみた。整風運動のやりすぎで中央を放逐された時期の末期かも知れないし。

廬山会議―中国の運命を定めた日(暁康, 蘇)

ところが、読んで驚いた。出ずっぱりなのだ。というか、むしろ主役側だ。

彭徳懐批判の最初の口火だし、張聞天(ja.wikipediaからも抹消されている不幸の人。初期共産党がソ連建国直後に留学させた人で、正統的な学者である)が正しく論理的に彭徳懐を援護したのに対して(毛沢東路線は明確に間違っていたので、理詰めで大躍進を批判されると反論できない)恐るべき方法を駆使して論破する役割を果たしている。

この技術はそういえば、安能務の中国史ものでも時々お目にかかる。

記憶にあるところでは、三国志で呉の学者たちを諸葛亮が論破するところがそれだ。

三国演義〈第1巻〉 (講談社文庫)(務, 安能)

諸葛亮や康生の議論術というのは、以下の手順を取る。

1)相手に話をさせる。その話は通常、正しい(大躍進は間違っていたし、その時点の呉は魏と戦うべきではない)

2)いかにも正しいですなというように相槌を打ちながら拝聴する

3)相手が一息ついたところで、調子にのってぽろっと漏らした片言や過去の言動をいきなり取り上げて糾弾に回る。相手はあまりにも馬鹿げた揚げ足取りなのでびっくりして黙る。

4)とにかく喋りまくって相手が反論できないようにする。

5)他のメンバーが1)の内容を忘れた頃を見計らって、結論を言う「お前は間違っている」

6)相手は既に反論の機会を失い沈黙を与儀なくされる。

これは相手が学者や学者ではないまでも知識階級で高度に洗練されているほど役に立つ技術だ。揚げ足取られた言葉が口に出たのは事実なので3)の時点で反撃できないからそのまま4)に持ち込めるからだ。また、知識人はコンテキストを説明しようとするため、揚げ足を取るための材料を話に含めることが多くなる。今Cを言いたい時に、Aという前提があり、それに対してBという反論もありえる。しかしそれはAのaという前提によって覆る。したがってCである、と話そうとしているとする。しかし敵対者は、Bという反論と言った瞬間に「つまり、あなたはBという考えが我が仲間内にあるということを前提しているわけですな。そのような疑念を持つ人間がどうして指導的立場を持てるのか私には不思議です。というのは、もし主席のお言葉に忠実であるならば、最初からBなどという考えが生じる余地がなく、そのような考えがあなたの口から出てくるということは、まさにあなたがBという考えを心の底に持っているからに違いありません……(延々としゃべりまくる)」

対抗方法は恥も外聞もなく、3)の時点で間髪を入れずに「黙れ、そんなことはどうでも良い。お前は人の何を聴いていたのか。ばかめが」と高圧的に出て、「みなさん、おっちょこちょいのでしゃばりによって水を差されましたが続きです」と2)を続ければ良いのだが、そういう芸当はまともな知識人にはできないので、諸葛亮や康生といった連中が権力を握るのだった。

(龍のかぎ爪はアメリカ人が書いた本なので、こういったアジア的な議論術についてはまったく触れられていない。だが、おそらくマッカーシーとかこのての術を駆使したはずなので、アメリカに存在しないわけがない)

で、思い出したが、あまりに廬山会議での康生が不愉快な人物のために、完全に頭の中から消されていたのだった。本当に悪い奴が表に出て来ないのは、こういうことなのだろうなぁと感慨にふける。

で、劉少奇や林彪といった表のNo.2は、直接的にNo.1に対する個人崇拝を人民に語ることから、No.1に直接的に疑われ失脚しやすいのに対し(廬山会議の結論を一言で説明すると、劉少奇によって毛沢東への個人崇拝路線が決定付けられたとなり、康生は出て来ない)、康生のように裏からNo.1を支えると長命を保つのだなという教訓が得られるのであった。


2014-06-09

_ シュングルマンって店で肉を食った

FBのogijunの投稿でシュングルマンという名前の店について書いてあるブログのリンクを見て、えらくおいしそうだなと思ったら、あれよあれよという間にみんなで食べに行くイベントができてしまって(というか、高さんが作ってくれたわけだが)昨日、食べた。ogijunと高さん、ありがとうございました。

で、興味を惹かれた理由のひとつにやたらと勤め先に近そうだというのがあったのだが、実際、余裕を見て会社を出たが、ものの数分で着いてしまって時間にはまだやたらと間があり、困った。と思う間もなく、見るからに参加しそうな人がやって来て、向うもこちらを見ているのでなんとなくお互いにogijunの会とわかる(その時点では知らなかったがjusの人だった)。

最初にオリーブが白、黒、緑、出て来た(と思う。黒と緑は記憶しているが白があったかどうかはちょっと怪しい)。緑がやたらとフレッシュでうまいのだが、黒も黒っぽくておいしかった。

で、前菜に、うにに白いソースがかかっていてふわふわしていてやたらと味わいと舌触りが良いやつと、鮎をミキサーにかけて蒸して緑のソースをかけたようなもの(そういえば日本料理でも鮎はたでのたれをかけるから緑のソースだな。でもたでではないと思う)でこれは鮎と書いていなければわからない不思議な綿流しな食べ物、それとつぶ貝をふんだんに使ったオイル和えのようなものがまず出て、どれもくせがある食べ物なのに繊細においしい。実に良い店だ。

次にバゲットと、もう少し四角いパンを切ったものが出て、つい食べてしまったら、前菜の続き用で少し残念な思いをした(そのまま食べてもおいしかったので、残念も少しくらいで済んで良かった)。今度行ったら、パンは肉の前菜が出るまで食べるのを待つことにする。

で肉の前菜にはシャルキュトリの盛り合わせのような書き方がしてあって、はて見知らぬカタカナだけどトリの部分からフランス語だろうと、クラウンを引くと(Android用のクラウンを入れてあるのだ)、ハムやソーセージなどの豚肉加工食品とあり、なるほど訳語が(英語を含めて)無いのではしょうがないと、シャルキュトリ(charcuterie (f))を覚える。というのもあってパンを食べてしまったわけだが、出てきたら、なるほどシャルキュトリと書くしかないやと理解した。

レバーペーストと、良くわからないけど妙に香りが良いパテと、割とあっさりとしたパテと、ハム(あまり記憶にない)が出たのだった。

次が魚料理で、鱧の揚げたのの下に温野菜を敷いたポットが出てきて、そこにソースをかけて食べる。ソースはなんだったかな? 鱧をこう食べるのかと思ったが、もともと大して味や香りがある魚ではないから、逆にソースに合っていたように感じたのだが、どんなソースだったか思い出せない。

そして肉料理が、焼肉祭りのような名前。地鶏を焼いたやつと、豚を焼いたやつと、アンガス牛を焼いたやつ。いずれも塩が実に塩梅よくかかっていて、そのまま食べてもおいしいのだが、それとは別に、マスタードソースと、トムヤンクンソース(jusの人が気に入って持ち帰らせてもらっていた)と、あと一つ覚えていない(塩かなぁ。これは顆粒状のものだったような気がする)が出て、お好みによって使ってくれと言われた。牛にはマスタードソースをつけたが、鶏と豚はそのままがおいしかった。なんか思い出しても異様においしかったのだが、肉が良くて火加減が良くて塩かげんが良いのだとしか思えない。特に豚の脂の匂いは好きではないので中華の東坡肉のようにがんがんに味付けて煮込んだものでないと食べられないのだが(ロースのカツとか嫌いな部類の食べ物に属する)、ここで出て来た豚については脂もしっかりついているのだがどえらくおいしかった。ということは豚の匂いがちょっと違うタイプの肉なのだろう。うむ、思い出してもおいしかったなぁ。

で、主食として実にアルデンテなスパゲッティに(うむ、何がかかっていたか記憶にないが、ちょっと風変わりな素材で楽しかったのは覚えている)、カレーライス。カレーライスはあまり好みではないのだが、と思ったが食べてみたら欧風カレーなのだが香りづけが良くて気に入った。ご飯がまたちゃんとしたご飯でおいしい。

最後デザートは、グレープフルーツの身を凍らせながら練ったような不思議なソルベ。湯煎ではなく氷煎というような方法があるのかなぁ? 当然ながら酸味と甘みが適度で肉、カレーというような大物の後に実に良い感じだった。

丸一日たって書き出してみると、あれだけ印象的だったのに忘れているものだなぁとがっかりする。が、それにしても良い経験だった。

ワインは誰が選んだかわからないが、チリのカベルネ・ソーヴィニョンで、僕にはどえらくしわく感じた。どうも渋みに弱いのかも知れない。が、おそらくあれだけしっかりとした味わいの肉を食いまくるには良い組み合わせなんだろうな。

追記:

思い出せないのは悔しいのでFBで小山さん(上でjusの人と書いている、2番目に到着した人)がアップロードした写真で確認した。前菜の前はオリーブだけではなくピクルスが入っていた。シャルキュトリには鴨も入っていたようだ。鱧は揚げたと書いているがムニエル。スパゲッティは昆布と雲丹。いや、おいしかったの思い出した。


2014-06-11

_ 2つの想像力

文系と理系という分類はくだらないと思うが、次の切り口であればまあわからなくもない。

その切り口とは想像力に関するものだ。

最初に違和感をおぼえたのは、以前『子どもの思考力を高める「スクイーク」 理数力をみるみるあげる魔法の授業』(それにしても冗長な題だな)のアランケイのあとがきを読んだ時だ。

そこでアラン・ケイは次のように書いている。

人間というものは、所詮、頭の中の物語を作ることしかできなくて、地球の気候変動よりもサーベル・タイガーに興味を持ってしまうような頭の構造をしています。

子どもの思考力を高める「スクイーク」 理数力をみるみるあげる魔法の授業(BJ・アレン=コン)

これだけだとなんだかわかりにくいが、雑誌(もしかするとWebかも知れないが)のインタビューでアラン・ケイが、テレビで氷河期の話をやるというので楽しみに観たら、サーベル・タイガーの親子がうろうろするくだらない番組で不愉快になったというようなことを語っていることに関係している。アラン・ケイにとって氷河期とは、サーベルタイガーの親子がうろうろする世界の物語ではなく、地球の気候変動のおそらくメカニズムがどこまで解明されたとか、そういったことが興味の対象だったのだ。

同じようなことはカール・セーガンも書いている。

悪霊にさいなまれる世界〈上〉―「知の闇を照らす灯」としての科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)(カール セーガン)

(おれはエセ科学がどうたらみたいな邦題のやつで読んだが、今は割と直訳な題になったのだな)

想像力というのは、今ここにないものを、自分の脳みその中で構成する能力だ。

そこに、どうやら理系と文系らしき違いがありそうだ。

たとえば、ビッグバンというのは、明らかに想像力の産物だ。宇宙の最初というものについて、現在わかっている法則からおよそ人間の想像力の限界まで突き詰めて求めた偉大な成果だ。

そういえば、NHKの神の数式という番組を観ていて、ディラックがディラック方程式を求めるために対称性が必要だと考えたというようなくだりがあったが、これも想像力以外の何者でもない。

つまるところ、数学が関係するものはほとんどが想像力の領域で、たかだか3平方の定理を証明するのですら、中学生には想像力を駆使しなければ求めることはできない。

この想像力は抽象的想像力と言って良いだろう(物理の場合であってもだ)。

その一方で、指輪物語のような想像力もある。世界を支配する指輪(を想像し)、それをわがものにしようとする悪とそれを破壊しようとする善があり、それぞれの側を代表する登場人物が想像上の世界を冒険する。

文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)(J.R.R. トールキン)

こちらの想像力はアラン・ケイが唾棄している物語的(叙述的)想像力と言えよう。

そこで「想像力」という言葉から、気候変動のメカニズムを想像するか、サーベルタイガーの親子の冒険を想像するかで、理系/文系と分類することができる。

問題は、その分類にはなんの意味もないことだ。

(また、すぐ気付くことであるが、人間精神における想像力の異なるありようを想像する想像力は、上記2つにあてはまらない思弁的想像力というもので、これは文理に分離すれば文に相当することになるが、叙述的想像力とはまたまったく異なるものだ)


2014-06-14

_ クマに会ったらまず脅せ

本屋をうろうろしていたら、かわいい表紙におっかない副題の本があったのでつい購入して、晩飯食う時にだらだら読みつつ、数か月かけて読了した。

クマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)(等, 姉崎)

聞き書きしたのは言語学者らしい。念願のアイヌ語事典の編纂中に逝去したらしい。

聞かれているのはアイヌと和人の混血の猟師さんで、実際問題としても最後のアイヌ(の血を引く)猟師だったらしい(同じく逝去している)。

おもしろい。

まず筆者(が二人いるので厄介だな。猟師さんのほうを以降、姉崎氏と書く)は、戦前生まれ。父親は日本人で母親はアイヌ、つまり混血なのだが父親が事業に失敗して日本人の土地からアイヌの土地へ移り(母親側の土地)、すぐに父親は死亡、以降、イタチを採ったり魚を釣ったりして生活費を稼ぎながら生きることになる。

ここでなんか、日本人の子供ということで徹底的に差別されたらしい。(まあ、逆に日本人からも差別されたこともありそうだから、混血というのは辛いものだな)

日本人にはどうせわらかないということなのか、伝統的な猟の方法だの儀式だのからスポイルされる。

ところが、稼がなければ死ぬしかないとか、全体としては差別しているのだがそうはいっても母親の親類とか近所の親切な人とかが、なんだかんだと世話を見てくれたり、(おそらく本人には自覚ないと思うのだが)猟や漁の真似をするのを許容していたりする。日本人の血が混じっていることで直接は教えてくれないわけだが、後からこっそりついてきて真似しているのは認めていたように読める(本人は気づいていないだろうが、子供が後をつけてきて何かしていれば普通はわかるだろ)。

その後、徴兵されて樺太で終戦後にソ連と戦ったりした後に(なかなか興味深いエピソード)、北海道に戻り、アメリカ軍の基地に就職するかたわら、休日には独立系猟師としてクマを撃つ生活に入る。

今の感覚だとクマを1頭しとめると100万円くらいになったようだ。

おもしろいのは、姉崎氏が、聞き手(以降片山氏)の誘導(意図的誘導というよりも、常識から考えた質問だと思う)をばんばん否定していくところだ。

Q:クマの手は冬眠中に尻をふさぐ右手よりも舐めるために蜂蜜を塗った左手のほうが高いと言いますが

A:お前はバカか? 蜂蜜を塗って住処まで四足で帰ったら、蜂蜜は全部地面にこすりつけられて取れてしまうではないか。左手に残っているなんてバカなことはあり得ない。

Q:クマは冬眠中に……

A:おれも興味があるので、冬眠から覚めた直後のクマと3週間くらいたったクマの両方を解剖して胃や腸がどうなっているか調べた。その結果……(科学者ではなく猟師なのだが、とにかく、合理的に仕事を片付けるために必要そうなことはすべて調べている)

Q:なんと! それでは他の動物、たとえばヤマネとかも同じようなんですかね?

A:ヤマネは解剖したことがないからわからない。(誠実な態度)

Q:ユーカラによれば……ということですが

A:それはあり得ない。またそれは疑わしい。なぜならばおれが入れ墨している婆さんから聞いた話だと(要するに伝統を守って入れ墨を口にしている婆さんのいうことは比較的信用しているらしい)……だし、実際、山に入って……していると……だ。もっとも……地方だと……だからそういうことはあるかも知れない。

という調子。

矛盾したことも平気でいう。

A:というわけで、婆さんは逃げて助かった。

Q:ちょっと待った。さっき、逃げたらだめだと言ったじゃないか。

A:もちろん、逃げたらだめだ。腰を抜かしたら上半身だけでも起こして、とにかく怒鳴る。

Q:でも婆さんは逃げて助かったと。

A:うん、婆さんは逃げて助かった。

Q:でも逃げたらだめだと。

A:婆さんはたまたま運が良かったんだろ(何、くだらないことに拘泥してるんだ? 一般論と個別論は分けて考えろよと、言わんばかり)

まとめると、

・熊は雑食と言っても、面倒なことは嫌い(人間様と同じだ)だから、ドングリがあればそれを食べる。魚や獣やまして人間を食べるなんて普通はしない。

(追記:要するに猫みたいに狩猟本能がかわいく毛むくじゃらになった生き物とは違うから、腹が減ってなければ他の動物を襲ったりはしない賢い獣だということで別に隣に寝ていても安心なくらいなのだが(というエピソードもある)、とにかく無茶苦茶力持ちなのが問題ということ。それにしてもこういう知能が高い生き物を熊イジメとかしていたアングロサクソン族には憤りを禁じ得ない)

・こっちの居場所を教えれば向うが勝手に避ける。おれはペットボトルをペコペコ鳴らしながら山を歩くよ。(慣れがあるようなので、以前は~で避けたようだが今はペットボトルのペコペコ音のほうが効果がある、というのが1990年代だかの話)

・というわけで道で向うからクマが来たら、バカヤローでもなんでも良いから怒鳴る。立ちはだかって怒鳴る。腰が抜けたら上半身だけでも起こして怒鳴る(おれは板垣退助を想像した。話せばわかると怒鳴るのもありなのだろう)。向うが勝手に許してくださいと逃げていく。

・とは言え、1)窮鼠猫を噛む(クマはなんとなく人間のほうが強いと勘違いしている)で戦わなければ死ぬとなったら戦う。2)一撃で人間は死ぬ。3)目の前に食べ物があるのだから食べる。4)ウマー。5)弱くておいしいから、次に人間見たら食べようという論理くらいはもっている。したがって、人食いクマは見たらすぐに殺せ。出たら追いつめて殺せ。

・というわけで至近距離まで来られたら、殺されないように、食べられないようにする義務がある。人食いクマにしてしまったら、他の人間に迷惑だ。

・棒で払うのは良い。突くのはまずい。

・逃げるな。逃げるというのは、おれはお前よりも弱くて、しかもお前の餌だと認めることだ。食われるぞ。

・死んだふり? バカか? 本当に死んだかどうだかもてあそばれて、手足を千切られるし、千切った肉を食われたらおしまいだ。

・とは言え、いろいろ例外もあってだな。

・ま、至近距離まで来られたら死ね。それがいやなら、とにかく上半身だけでも起こして、睨んで、怒鳴る。とにかく怒鳴る。

・あと、クマを見たほうが良い。

・でっかなクマは安心して良い。そこまで成長したということは、身を守るすべを知っている、つまり慎重で臆病で頭が良いクマだ。怒鳴ればわかる。

・子熊はかわいい。でも近寄らないこと。母親から見れば、お前さんは弱弱しい子供を狙うおっかない野獣にしか見えないからな。窮鼠猫を噛むの原理が働くぞ。

・若い熊、こいつはやばい。バカで経験を積んでいないから、近寄って来ることがある。死んだふりすると何だろう? ともてあそんで手足を千切られる。千切れば肉の匂いがするから齧ってみる。おいしい! だめじゃん。

・というわけで、至近距離になったら、なりふり構わず、生き残ることを考えろ。逃げて助かった婆さんもいれば、手足を千切られてそっちをおもちゃに持って行って助かった作業員もいるし、いろいろだ。

・でも、とにかく近寄せないことが最重要。

・っていうか、やつらはドングリ食ってれば満足なんだから、広葉樹林を破壊した役人どもは本当にバカだね。

というようなことであった。

しかし、本当におもしろいのは、姉崎氏が語る、上手に効率的に稼げる猟師として生きるために、北海道の山でどう行動するのが一番合理的かという知恵の数々だった。

知的な好奇心がえらく刺激されるおもしろい本だ。


2014-06-17

_ トマトの味には歴史がある

トマトはこれまで何度も味を変えてきた。

その都度新しい発見があったし、大抵の場合、新しい味のほうに魅力があったので、ハーゲンダッツが妙なトマトのアイスクリームを出したのは歓迎で、当然のように食った。

ハーゲンダッツ スプーンベジ 12個セット(-)

悪くない。

でも、たぶん、受けないかなぁという気もする。

トマトの味の変遷について考えてみよう。

物心ついたとき、トマトは塩を振って食べる野菜だった。

それからしばらくしてカゴメやデルモンテからトマトジュースという飲み物が発売されて、これも塩が入っていた。

スイカに塩をふるのは甘味を引き立てるためだそうだが、そういうのとは異なる雰囲気だ。

そのルールを変えたのが、1980年代の中ごろで、カゴメが朝市というトマトジュースを出してきたときだ。

塩を完全に抜いてきたのだ。

巷にあふれるゲーという声。それはすごかった。

が、おれは、2回目から塩がないほうがうまいじゃんと思った(初回はなんじゃこりゃと思ったのだが、何となく惹かれるものがあり、2回目飲んだ時はすっかり好きになってしまったのだった)。

でも圧倒的な不評の前に、朝市は比較的すぐに市場から消えてしまった。

デルモンテ 食塩無添加 トマトジュース900g×12本[機能性表示食品](-)

(今は食塩無添加が当然だが、1980年代の日本人にとって塩抜きトマトというのはあり得ない味だったらしい。愚かだが、味覚保守主義というのはもっとも広範に支持を獲得している主義だそうだからしょうがないのだろう)

が、その後、減塩はヘルスィーとか騒がれだしたのにつれて、朝市ほど過激に無塩にはしないまでも、塩の量は徐々に減っていったように思う。とはいうものの、おれは朝市で、塩抜きトマトジュースのうまさを知ってしまったので、以後塩が入ったトマトジュースは飲まなくなった。

さて、それからしばらくしてタイへ旅行するために蘭のマークのタイの飛行機に乗ったのだが、飲み物を聞かれて何気なくトマトジュースを頼んだら、これが衝撃的においしい。

これまで飲んだことがないトマトジュースなのだ。

で、缶を眺めて内容物を見て仰天した。sugarって書いてある。

ここでおれは初めて砂糖とトマトの組み合わせを知ったのだった。が、これは塩のトマトジュースとも、塩抜きのトマトジュースとも異なる、別の美味しさだった。

帰国後、土産話で砂糖が入ったトマトジュースの話をすると、全員が全員、まずそうだの気持ち悪いだのネガティブな反応ばかりかえってきて、いやお前ら無塩トマトジュースを今は飲んでいるが朝市が出てきたときもゲーゲー言ってただろ、自分の舌と鼻で味を判断しろよなとか思ったのをよく覚えている。

その後、二度とタイには行かなかったし、彼らの反応が日本の市場の大勢なのだろうということで、砂糖が入ったトマトジュースを日本で見ることはなかったので、タイ航空で味わったトマトジュースの味はおれにとって幻の味となった。ハーゲンダッツのチェリートマトアイスが来るまでは。

一方、それとは別に、アメリカへ行くのに飛行機に乗り、ここでもトマトジュースを頼み、缶のでかさにびびりながら、渡された紙コップに注いて(それで1/3くらいか)飲んで飛び上がった。塩辛いのなんのってちょっとあり得ないだろう。昔(朝市より前)のトマトジュースってこんなに塩がきいていたのか、それともアメリカ人は極端な味覚なのかどちらだろうか(ジンを薄めるのに使うとかかなぁ。それにしても塩が効きすぎていた)。

で、さらに驚いたのは、缶に塩分の取り過ぎに注意と表示があって、成人の1日あたりの許容できる食塩量が書いてあるのだが、そのトマトジュースには余裕で成人3日分の食塩が入っていた。ばかじゃねぇか?

というわけで、アメリカでトマトジュースを飲むことは無いだろうな(が、あまりに塩辛いのが逆におもしろくて、帰りの飛行機でも注文したのだったがもう少し塩分控えめなやつが出てきたような記憶がある)。

いずれにしても、ハーゲンダッツのおかげで砂糖のトマトが市場に出てきたので、仮に朝市のようにすぐに消えたとしても、開いたパンドラの箱はもう閉まらない。甘いトマトジュースが出てくるのが楽しみだ(が、甘い飲み物は基本飲まないので、出てきても飲まない可能性のほうが高いな)。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ atsushieno [東南アジアだと果物としてトマトを食べるのが一般的なのかも。台湾だと果物として扱われていて、パックで買うと中に砂糖が入..]

_ matsu_hiroshi [インド料理で砂糖たっぷり真っ赤なトマトのチャツネが出てくることがあります! イチゴジャムでは出ない酸味、プーリー(ナ..]

_ arton [>atsushienoさん、うめトマトジュース飲んでみたいですね。おいしそうだ。 >matsh_hiroshiさん、..]


2014-06-20

_ 外食の本

妻が、図書館で借りられないからお前のKindleで廉価版が買えるから買って読ませろというので買ってやった。

で、鳴り物入りで買わせたわりに、読んだ後も全然不満そうなので、逆に興味を持って読んだ。なるほど、良い本だ。不満に感じたっぽいのもわかる。

「外食の裏側」を見抜くプロの全スキル、教えます。(河岸 宏和)

精神論も含めて、書いてあることがあまりにも当たり前なことばかりなので、読んでいて少しもおもしろくなかったのだろう。センセーショナルな悪口があるわけでもない。

むしろ、ダメな店がなぜダメなのかを事情を斟酌して説明してあるくらいだ。

要するに、買ってはいけないのような本を期待していたっぽい(が、そう言うと、おれが鼻で笑うのが癪の虫を刺激するのでそうは言わないのだと想像する)。

書いてあることは極めてまっとうなことばかりで、そういう意味では特におもしろくもなんともない。

ただ、サービス業(特に外食産業)に従事しようとか考えている人はまじめに読めば得るものはあるだろう(が、書いてあることはまっとうだが精神論が多過ぎてうんざりするかも知れない)。

100円の商品を原価率30%とすると、30円の材料だというだけのことだ。

普通にスーパーでも百貨店でも行って買い物すれば、輸入の牛肉で100g 300円~500円、国産の牛肉で500~1500円、和牛で1500円~とか、豚は安いがアメリカ産のはもっと安いとか、国産のブロッコリの花のサイズを見れば、アウトバックの温野菜のブロッコリは国産ではないとか、普通にわかる。

賞味期限というのは不味くなるまでの期限で、必ずしも食べたら危険になるまでの期限ではないということを知っていれば、賞味期限切れの見切り品を回収後に安く卸すというのもまあそんなものだろうと思うし、変色したり味が落ちたものでも加熱して味を染み込ませれば食えるわけだから昨日の刺身が今日の煮つけとして売られるのも当然のことだ。

安定供給を前提としなければチェーン店は成立せず、安定供給が可能だということは、それが一次産業品であっても、二次産業のように製造できなければならず、そのような管理方法がとられるというのも、これも当然のことだ。

幸い、1960~70年代の実験を過ぎて、生産者も流通業者も消費者も、それほどバカではなくなった(と考えたい)。もっともそのあたりの時代のすさまじさ(七色に川が光ってぼこぼこメタンが噴出して背骨がくの字の魚がいればまだ良いほうで、川がそんなんだから沿岸での養殖には抗生物質をがんがん投与するとか)を知らない人たちが多くなっているから、ちょっと目を離すと平気で逆戻りしそうな気もするが、それなりに法が整備されて規制があるから少しは安全だろう(ということもあって、規制撤廃みたいな言葉を生産者や流通業者側が言い出すと、何の規制についてだ? とまず確認しなければ危なっかしい)。

なるほどなと思ったこともあって、魚を出す必要がある居酒屋についてはチェーンという業態に不向き(どうあっても、良い味の食い物を出すことはできない)というのはそうだろうと、和民の赤字について思いをはせる。消費者が貧乏ならばそれでも業態として成立するだろうが、景気がちょっと上向けば、逆に傾くことになる(小金があればわざわざ不味いものに金は払わなくなる)。


2014-06-23

_ 三島由紀夫と鹿鳴館

22日は、新国立劇場で鹿鳴館。池辺晋一郎の作品を意識的にみるのは今回が初めてだと思うが、日本語の良く考えられたオペラだった。

が、比較的始まってすぐの大徳寺侯爵夫人の「じんせい」の抑揚の付け方が気持ち悪くて妙にひっかかってしまった(その一方で、ですますの文末の流し方はきれいなんだよな)。

一幕の後半は見ていてだれてきてあまりちゃんと観ていないのだが、フレーズの繰り返しが気持ちよかったのは覚えている。

最初に大徳寺侯爵の娘と自由民権家の息子で始まる二幕は物語が急展開することもあって、演劇としてまずえらくおもしろい。その分、音楽の印象がほとんどない。なぜワルツを妙に猥雑に(演出含めて)するのか。そこだけ音も浮くし、実際の政治でも鹿鳴館の中だけが浮いていたわけだから、それを意図しているのかな。

朝子役の腰越満美という人は二幕の黒いドレスが良く似合い、誇り高い新橋芸者の凛とした風情があって、良かったと思う。ただなんというか、草乃って陰謀家の美人秘書(兼小間使い)なんじゃないのかなぁ。なんか蝶々夫人の鈴木みたいな老婆にしか見えなくて、これじゃない感が半端ない。

鹿鳴館 (新潮文庫)(由紀夫, 三島)

物語は比較的単純だ。影山朝子は40手前くらいの美しい女性で、影山悠敏(おそらく内閣首班)の妻。元は新橋芸者だ。その芸者時代に心底惚れた男の子を宿し産んだ子供、清原久雄は男に引き取られて美しい青年に育っている(影山が、「あの年代の青年というのは女性の美と同じ言語で語ることができる。それにしても、あれは美しい。あの美しさはかって見た覚えがある。確か新橋の売れっ子芸者で……(察し)」と語るくらいなのだから美青年なのは間違いない)。でその惚れた男は自由党の生き残りで清原永之輔。脇にからむのが、曲馬団の天幕で久雄と出会い相思相愛となった大徳寺顕子、その母で朝子のよき友人の寺侯爵季子(出自が似ているのではなかろうか。それに対してイヤミな女性役として出てくる宮村陸軍大将夫人などは下級士族か三文貴族の子弟という感じだ)。

影山は20年以上たっても信頼関係にある朝子と永之輔に嫉妬して、陰謀を巡らし、久雄に永之輔を暗殺させようとする。が、久雄の屈折は逆に永之輔によって久雄を殺させることになる(と永之輔が語るのだから、どこで真実かはわからないのだが、永久の親子関係なのだから嘘はなかろう)。朝子はその仕組みを知り、永之輔とともに生きることを宣言する。が、影山はそうなることを敏なのであらかじめ察して、刺客飛田天骨を放している。銃声が聞こえ、影山は悠々と生きる。

で、つくづく感じたが、おれは三島由紀夫って本当に嫌いだということだ。見ていてここまで不快になるとは思わなかった。

考えてみれば、あまりの腐敗臭に豊饒の海はもちろんのこと、たかだか金閣寺ですら最後まで読み通したことはなかったのだった。

結局最初から最後までというのは、ジャンルイバローの劇団が草月会館で演じたサド侯爵夫人と、今回の鹿鳴館の2つの戯曲作品を舞台でみただけだ(正確には、忘れてしまった雑誌に収録されていた憂国は読んだ)。

言葉は必ずしも悪くなく、むしろ高踏なくらいなのだが、何か非常に気分が悪いものがある。

たとえば、ばかみたいに人間関係を示す命名方法にそれがある。とても厭らしい。影山から朝日が昇るのではなく、影山に隠れて朝は見えない。清さは影には勝てない。永、久、悠という同義語で示される朝子の回りの男だが、介も輔も他人を助ける意味だが、敏はその場その場で自分のために切り抜けていく。天に骨を飛ばす男だけが別の時間を生きている。太陽が顔を出す朝子と姿が顔を出す顕子は二人とも男を失う。季は朝より長く、永久悠より短い。唯一生物なのが草乃だが、それは風になびくだけ。

小賢しいというか、下品なのだ。

関連する文学者という点では、三島が嫌っていたという太宰治のほうがはるかに好きだ。太宰治の場合、自分を卑下し過ぎるきらいがあるのだが、そこの遠慮が世界の見方に対する柔軟性となり自分の不確かさが世界受容として美しい。ところが三島由紀夫の場合は、提示されているのはそこに無い確固たる権威を前提にした硬直的な(運命論的な)世界で、それはまずお仕着せがましいし、一見すると太宰治と同じような自己卑下にもみえるのだが、実のところそれは確固たる権威に対してのみの卑下であり結局は裏返しの傲慢さと冷酷さなのだ。鹿鳴館の場合、朝子が主人公のように見えるのだが、実は朝は影山に覆われて来ることはなく(清い原には朝はすみずみまで光を投げかける)、そこにあるのは悠久の敏さなわけだ。気分悪いのも当然だ(影山が主役ならもちろんそれはそれで良いのだが、主人公は朝子なわけだ)。

と、三島由紀夫の作品はくずのようなものだったが、舞台作品としてはとにかく歌手、舞台、衣装、どれも見事なものだった。


2014-06-26

_ 文化大革命とはなんだったのか?

康生 龍のかぎ爪の下巻も読了。

とりあえずは、以下の点について留保した上で、内容を相当に確からしいと仮定していろいろ考えた。

・毛沢東の責任の大半を康生に負わせることで毛沢東の罪を軽く見せるという手法ではないとは断言できない(分謗論は、春秋戦国からある手法だ)

特に興味深いのは、やはり文革-米中国交樹立-日中国交正常化-林彪クーデター未遂-四人組逮捕までの歴史の流れで、当時中学生くらいだったので、何が起きているのかさっぱりわからなかったのだが、実はそれがおれが中学生だからわからなかったのではなく、当事者たちですら(おそらく周恩来と鄧小平を除いて)誰も全然わかっていなかったらしいということがわかって、愕然としている。

龍のかぎ爪 康生(下) (岩波現代文庫)(ジョン・バイロン)

中学生の頃はともかくとして、日本に住んでいるということは、文化大革命や紅衛兵というのは、何よりも、造反有理革命無罪の掛け声だし、つまりはゴダールだ。

中国女 Blu-ray(アンヌ・ヴィアゼムスキー)

その一方で、ジャンピエールレオーの仲間がぶつぶつ言いながら読み続けている赤い小さい本が、矛盾に満ちたものだということも当然のように知っている。というかおれも読んだ。

毛沢東語録 (講談社文庫)(毛 沢東)

細かいことは忘れてしまったがモラビアと誰かがお互いに毛沢東語録を使って罵り合いをしたというエピソードもある。モラビアがAと引用する。相手は反Aを引用する。モラビアが反反Aを引用する。相手は反反反Aを引用する。どちらにも使える。

なんのことはない、単に気の利いた言い回し(レトリック)の教科書であり、そこには一貫した指向はあっても思考はない。

その一方で、ゴダールだけでなく、モラビアも、モラビアの映画化をしたベルトルッチも、高橋悠治も、ようするに1970年代におれが好んだ文化人たちはみんな文革が大好きだったというか、毛沢東主義者だった。

孤独な青年 (ハヤカワ文庫 NV 343)(アルベルト・モラヴィア)

文革が不思議でたまらないのは、それがまず名前と異なり革命(支配者がひっくり返ること)ではなく、しかもクーデターでもなく、最初から最後まで毛沢東は党主席のままだということで、だから政治革命ではなく文化大革命なわけだろうとは見当がついても、しかしなんだかわからない。

何かすごいことが起きているということは外部から見ていてもわかる。しかし断片ばかりだ。都市のインテリ(官僚や学生を含む)は頭でっかちだから農作業や工場労働をさせようと地方へ送る下放というものがあるとか、劉少奇が走資派(資本主義と妥協することで主義より経済成長を重視する分派)として失脚したとか、そういうことはわかるのだが、そいうは言っても張り子の虎だなんだの悪口言いまくっていたアメリカはニクソンと国交を回復したり、いつのまにか副主席の林彪が飛行機に乗ってモンゴルへ逃げようとして墜落して死んだとか、失脚したといはいいながらいつの間にか鄧小平が戻って来て、また失脚して、また戻って来て、あれよあれよという間に毛沢東も周恩来も死んで、四人組が捕まって終わってしまった。

それは無政府状態だったのだということが良くわかった。

それほど知識も経験もなく、マクロに政治や経済を見る能力がない大学生(精華大学や北京大学だから優秀な連中なのは間違いないが)に対して、司令部を砲撃せよという壁新聞で毛沢東主席みずからが学生組織を作り、資本主義と妥協して経済成長戦略を取る政府そのものを攻撃することを指令する。彼らは自主的に学習したとしてもあの単なる名文句集の毛沢東語録なのだから口は達者になるだろうが、経済や政治は何も学ぶことはできない。

学生が大挙して集団を作って役所や事業所を占拠する。占拠したうえでそこにいる連中を暴力で排除する。

それが全国へ飛び火する。

伝統的に紅軍は人民には銃を向けない(このために文革が大きくなったことを知っている鄧小平がどれだけ恐怖したかというのが、前回の戦車を突入させた天安門事件に通じるのだろう)ので、紅衛兵が暴れまわっていても手をつけずに見ている。手をつけずに見ていることを良いことに紅衛兵は武器を奪い、武装し、内乱状態となる。

その間隙を塗って康生や文革小組の連中が、政敵を次々と紅衛兵に売り飛ばす。売られると非公式な裁判が行われ私刑される。指揮系統が乱れているので、公安を使って適当な罪状で拘禁し拷問し自白させ連座させ処刑する。

賀龍(髭の大将軍。若い頃は山賊だったが、共産党の呼びかけに応じて紅軍に参加したという、まるで三国志の周倉のようなやつで、もちろん人気がある)のような国家に忠実な軍人を粛清し、林彪に軍権が集中するようにする。

周恩来が生き延びたことが奇跡のようだ。(鄧小平が失脚しても処刑も拷問も受けなかった(そうは言っても紅衛兵に暴行は受けただろうが)のは毛沢東のお気に入りなので、康生が手を控えたからだという記述もある)

工場長を追い出し、適当に最もプロレタリアートらしい人間が工場長となり、生産を停滞させる。同じことで物流も停滞し、行政は麻痺する。

で、10億人がひどい目にあった文化大革命というのは、単に、北京市長の彭真が自分よりも先に出世したのを気に食わない康生が、毛沢東の被害妄想(大躍進の失敗があるから、実際、脛に傷があるので正当な恐れではあるのだが)を煽って始めた権力闘争で(それは権力闘争なので良いとして)、それが紅衛兵なのは手元に使えるリソースが大学生しかいない(軍人ではないし、1950年代のブランクのせいで公安に対する影響力が消えている)という、本当にそういうものだったのには驚いた。もっとも司令部を砲撃せよを毛沢東が書いたのが決定的なのだから、大学生を駒にすることは毛沢東も考えていたということだろうけど。

それがうまく動くと、紅衛兵は勝手に秩序を破壊し始めて、老害死ね、老害くたばれ、ということなのだろう、理屈も何もなく、偉い人、つまり司令部を勝手に砲撃するようになった(とはいえ、資金源でありネタの提供元である文革小組と、その顧問の康生、そして毛沢東そのものには、絶対に砲撃しない(正確には初期の頃、康生は砲撃されるのだが、大人の政治で解決している))。

文革の毛沢東というのを他の歴史イベントでたとえると、どうも、建武の親政の後醍醐のようだ。実権は北条にあり、実際、対蒙古で疲弊した経済を立て直そうとしているのに、ふと、なぜ一番偉いおれさまに実権が無いのだ? と疑問に感じて、詔勅を出しまくる。すると河内の悪党だの、北関東の源氏の若大将だのが、勝手に政権と戦い出す。しかしその新政権にはまったく政権運用能力がない。北畠康生のように口が達者で、なぜそれが正しいのかはぺらぺらしゃべるやつがいるところまでそっくりだ。その後は随分と異なるが、ただ、華国鋒という繋ぎを含めて、鄧小平を温存したということを考えると、毛沢東は康生ほど後先考えずなわけでもなく、単に本当に固定化された政権を掻き回したかっただけなんだろうなという気はする(が、殺された数千万人にしてはたまったものではない)。

ふと思ったが、少年兵(家族と切り離して、可能なら家族や地元の人を殺させることで、帰属先を自分側にしてしまう方法で獲得した兵士)というのは、紅衛兵の作り方から学んだということはないとは思うが、もしそうならばとんでもない影響を残したことになる。


2014-06-29

_ ためになる本

例によってアスキーというかカドカワの鈴木さんからもらった本を読んだので紹介する。っていうか、最近、このての記録がやたらと多い気がするが、もらった本のうち、何冊かは(実はここに書いてないけどもっと山ほどもらっている)こりゃおもしろそうだとか、今まさに欲しい本だとかで読むし、読めば記録するんだからしょうがない。

で、シェルスクリプト高速開発手法入門だ。

おもしろかった。でも、これは弱ったな(本当に弱っているのではなく、なんか照れているような、そんなニュアンス)。時代の風をびゅんびゅん感じるぜ。

おれは、今、Insider.NETにASP.NETによる軽量業務アプリ開発っていうのを連載させてもらっているんだけど、以下の諸点において、著者と同じ空気を吸っているようだ。

・コマンドラインとエディターが楽。

・後付けのソフトウェアをできるだけ避けて箱をシンプルに保つ(ただし、本書の著者はMACが好きらしくHomebrewしている)。

・少ない(注しておくと、少ないのは領域だけだ。その領域内については相当知っている必要がある)共通的な知識でまかなう。

もちろん技術的諸要素は全然違うのだが(おれはWindowsだが、こちらはMACとUbuntu(かつ補助的にしかし技術的にOpenBSD+FreeBSDが入り込む)、おれはC#+PowerShell(つまりCLR)、JavaScriptだが、こちらはbash、GNUツールズ(gawk, gsed, ggrepなどなど)、JavaScript、おれはSQL ServerだがこちらはUFS系)、多分、それ以上に近いものがある。

で、この本を一言で片づけると、次のようになる。

1)今すぐ仕事の現場で使える本が読みたい→他の本を読むべし

2)コンピュータをまともに使う方法を知りたい→この本を読むべし

おそらく1)の人が、そういう要求を持っているということは、既に手遅れだ。おそらくその現場にはEclipseかVisual Studioがあるから、それの操作方法と、関連したフレームワークについて学習するほうが良い。しかし余裕があるのなら、その余裕を2)として、この本の読者となれる。

あと、少しレイヤーが変わるが、3)Unixコマンド(特にgrep、sedやawk)を覚えたいがマニュアル読むのかったるいから誰か使い方教えてな人は、これを読んで使われ方を見ると間違いなく参考になる。

書き方はいささか馴れ馴れしく押しつけがましいので、そういうのが嫌いなら避けたほうが良いかも知れないが、おそらく相当に意図的にやっていそうだ。これも雰囲気というかみんなが嫌いな『空気』の問題だが、Unixスタイル(ある意味ではハッカースタイル)のノリがある。

最初にテキストがある。テキストをコマンドを通すことで変形する(ccを通せば実行可能なプログラムになるし、nkfを通せばエンコーディングが変わるし、grepを通せば目当ての文が見つかる)。

次にパイプがある。プロセスがテキストを出力すると次のプロセスがそれを入力としてテキストを出力すると別のプロセスがそれを入力して……というのがうまいことキューされて並列に動作する。

少なくとも現在のコンピュータはUnix文化内だから、結局のところ、Unixスタイルが最低限身に着けておくべき作法(この用例では確実に「さほう」)なのだ。それが具体例つきで学べる本だ。最近だとあまり他に例がないんじゃないだろうか。その観点からは相当な価値がある。

全体は一緒に作ろうチュートリアル的な構成になっているのだが、書き方もあって、むしろ開発日誌(という読み物)っぽい。

まず、WordPressのデータの保持方法にうんざりし、ブラックボックス化されたプラットフォ-ム部を解析する面倒くささにうんざりし、なんでUnixをある程度わかっている俺様が、Unix上で動くソフトウェアをいじくるのにこんな無駄な苦労をしなければならないんだ? というモティベーションが説明される。せっかくUnixというテキスト処理のためのワークベンチを使っているのに何かが間違っている。

そもそもWebって、テキストベースのヘッダ変数とリクエストに対してテキストベースのレスポンスを返す仕組みじゃん。

ならば、シェルで十分以上だ。では諸君、戦争だ。と物語が始まる。

ただ、ばんすか原理主義的な雰囲気を漂わせながら、shではなくbashとか、whileやforを使うのは悪手、できるだけseqかxargsとパイプとか、こだわるところはこだわる。というか、forやwhile使わずにseqやxargsばかり使っているので見た目は関数型っぽい(というわけで実際にはシェルそのもののプログラミングというよりは、grep、awk、sed、seq、xargs、[の世界を効率よく組み合わせるためのシェルプログラミングだ。もちろんcurlやopensslも使うけど)。

最初はMacを使っている人のためのHomebrew導入講座で、続いてデータ構造の決定とディレクトリ、ファイル、日時操作のシェルプログラミング、続いてHTML吐きだしのための仕組みとシェルプログラミング(というか、grep、sed、awk)、さらにtimeを使って、何をどうするとどのくらい処理時間がかかるか、キャッシュ(memcachedとかじゃなくて、OSのファイルキャッシュ)のききによってどのくらい影響されるかどうすれば有効に使えるか、さらにTwitter APIをシェルで呼ぶ(OAuthのパラメータをnkf、oepnssl、awk、sedを駆使して作ってcurl)とかした後に、ログ解析のシェルプログラミング。

という物語(実際、読み物として読める――ただしsedのパラメータは除く)にはさまって、こう書いたほうが良いとか、こう書くのが素敵だとか、こういう書き方は汚いとか、このコマンドはこういう問題があるからこう避けろとか、たとえばsshを使ってリモート経由のパイプとかheadはパイプをbreakするからやばいのでawkで回避しろとか、というような項が入って来る。

さらに第二著者によるガチなBSD技術コラムが入る。これがまたおもしろい。

そんな具合に全体の雰囲気そのものがUnixスタイルっぽくて楽しい(たとえていうならば、先輩のコンピュータ談義を聞きながら教えてもらっているような感じだ。反面、最初に書いたようにちょっとはなにつくところもあるのだけど、こういうスタイルはある種の伝統芸のような気がする)。

フルスクラッチから1日でCMSを作る シェルスクリプト高速開発手法入門(上田隆一)

一言でいえばおもしろかった。知らなかったこともあって、そういう点は参考になった(xargsとか完全に覚えたっぽい)。(しかしおれはシェルプログラミングではWebアプリケーションは作らないだろうなとも確信したけど)


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