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日々の破片

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2017-02-05

_ スカラ座と新国立劇場の蝶々夫人

土曜日は友人の家で12月のスカラ座の2017年開幕の蝶々夫人の録画を観る。

はじまるとシャイーがイタリア国歌を演奏するのでちょっとひいた。

もし菅とか安部とかが、ここだけチラ見したら(小泉はわざわざ劇場に来ていたが、おそらくそんな趣味はないだろう)、新国立劇場も国の予算を使っているんだからスカラ座みたく国歌を演奏しろと開幕というコンテキストを無視してわめきたてるのではなかろうか。冗談ではない。とはいうものの、演目が蝶々夫人だからいやでも君が代は聞かされることになるわけだが。

初演版ということで、明らかに違和感がありまくる。

まず、シャープレスが、悲しませてはならないと言いながら、ピンカートンと一緒になって結構皮肉を言いまくる。3人の下男下女の名前について延々と難癖をつけて顔1、顔2、顔3と呼ぶとか言い出すピンカートン。長いよ。

最も素晴らしい瞬間である、花嫁行列からわたしは愛に呼ばれてきましたにかけての音楽がなんか違う。薄い(あとで、新国立劇場のプログラムを読んでいたら、改変版では音を少し変えていると書いてあって、その少しの違いによる印象のあまりの違いに驚いた。マジックだ)。

で、婚礼のシーンが長い長い。酔っ払いの叔父(ヤマドリに似た妙な名前だったが忘れた、どこの国にも変わり者の親戚がいるとスズキから聞かされたピンカートンかシャープレスが評する)がくだらない歌を2回も歌い、ピンカートンとシャープレスが嘲笑する。

蝶々夫人が15歳(数えなんだから、ここでもやはり14歳なわけだ)というと、まだ遊びたいざかりだろう、で済まずに、それはお菓子が欲しい年頃だ、蜘蛛の砂糖漬けとバッタの飴を作れとか言い出す(なんかの皮肉なのかな? と思ったが、おそらく東洋の妙な国だから昆虫に砂糖をまぶしたものを食う風習があるということにしているのかも知れない)。

舞台は3階建てだが、どうも坂の下が3階という奇妙な構造。

ボンズのちょちょさーんは意外と小さい。

で、2人になると、シーリ(この人は、新国立でトスカマッダレーナが素晴らしかったが、いまひとつフォトジェニックでは無さすぎる)が真っ白に塗りたくって唇だけぼってり赤く塗って、実に妙な肩を持ち上げて手をくっつける奇妙な振りをさせられていて気持ち悪いのはおいておけば、素晴らしい。とにかく伸ばしたときの声の響きが抜群で、それ以外はどうでも良くなる。

ピンカートン(誰か忘れた)は最初、くぐもったいやなテノールだなと思ったが、位置のせいか、節回しのせいか、ときどき素晴らしく良くなり、1幕後半の美しさはすばらしい。

毒々しい振袖だが動きによっては蝶々のようだ。狙ったな。

2幕。いきなり洋装でミシンがあるテーブルに向っている蝶々夫人。そりゃそうなのか。彼女は自分をアメリカ人としているのだから、それが普通か。

スズキの人が絶品。2重唱がこんなに美しい音楽だとは今までわからなかった。

金が尽きそうの箇所で、あれ、こんなに椿姫だったのか? と驚く。ちょっと違うぞ。

シーリはそのまま素晴らしい。が、ビデオでアップが多いのでちょっと気持ち悪い。が、歌のすばらしさはとてつもない。

ある晴れた日の途中の大砲のところで、あ、まさに大砲だったのかとはっきりわかるドンの音。シャイーの棒は素晴らしいのではないか。

子供が金髪なのでびっくりした。

青い目(台本としては、誰の子供だ? と訝るシャープレスに目を見せて、ピンカートンの子供だということを示すのに青い目を利用している)どころの騒ぎではない。

シャープレスのピンカートンに対する怒りがはっきりくっきり歌われる。

ただ、洋装になっているだけに、自分はアメリカの法律によってうんぬんの箇所が逆に滑稽さを際立たせているようにも感じないでもない。滑稽と悲惨のバランスが難しい歌だ。

3幕。ピンカートンの卑怯っぷりがすさまじい。あとでわかったが、さらば愛の隠れ家の歌の有無でここまで印象が違うとは思わなかった。たかが言い訳とは言え、歌が良ければ印象が良くなるのだなぁ。

シャープレスが渡した金を蝶々夫人は受け取らないので、あとでスズキの袖の下にこっそり入れる。演出が細かい。

ケイトが最後に蝶々夫人に「握手してくださるわね?」と言う。「それだけはお断りします」と蝶々夫人は毅然として言う。

これ、カットする必要あったのだろうか? お互いの気持ちがはっきりと示される見事な台本と思うのだが。

最後、見事な所作で首を搔き切って倒れる。そこにピンカートンが駆け込む。いきなり子供の目隠しを取る。子供、しっかりと蝶々夫人の亡骸を見るのだかどうだか、こちらをにらみつける。オーメンの最後だぞ、これ。

というわけで、シーリの素晴らしさ、台本の不思議さ(3年たってシャープレスが相当日本に馴染んできたのかな)、1幕のだらだらっぷり(異国情緒をたんまり盛り込もうと狙って失敗したような)となかなかおもしろかった。というか、すさまじくおもしろかった。

日曜は新国立劇場で同じく蝶々夫人。

やはり、花嫁行列の音楽は、こちらのほうが圧倒的に美しい。夢みたいだ。

安藤赴美子は良かった。

甲斐栄次郎のシャープレスは理由はわからないが、好きだ(これが2回目だが前回観た時も実に良い印象)。

ボンゾの登場はまるで雷で、音はこちらの演出のほうが良い(3階のふすまをガラッと開けて登場するスカラ座の演出も好き)。

2幕を見ていると、あまり椿姫みたいには見えない。スズキの存在感がほとんどないからだ。単なるイエスマンになっていて、初演版のほうが蝶々夫人を支えようという意思を感じさせる台本になっているように感じる(演出が異なるからか、そもそも初演版から台詞をカットしまくっているのかも知れないが)。2重唱もあまり2重唱っぽくないが、これは主役と助役の歌手の力量さの問題かも知れないからよくわからない。

ある晴れた日の大砲は聞こえるか聞こえないかで、これはシャイーの音のほうが良いのではなかろうか。

オーギャンという指揮者はなんか普通の蝶々夫人という感じで、特に強い印象を受ける音はなかった。

3幕、マッシのピンカートンは良い。

それにしてもマントヴァ公の2幕始まってすぐの彼女を愛しているんだといい、さらば愛の隠れ家よ、にしろ、実に手前勝手な歌なのだが、良い歌によってちょっと印象を持ち直すというのはおもしろい。

おれは本当にプッチーニが好きだな。


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